2014年9月10日水曜日

昭和天皇実録

昭和天皇の姿 浮き彫りに

9月10日 19時05分
宮内庁が24年余りかけて編さんした昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が、9日、公開されました。
新たに見つかった側近の日記など膨大な資料に基づく初めての公式記録集で、
戦前から戦後の激動の時代を歩んだ昭和天皇の生涯が詳細に記されています。
実録からは、昭和天皇が政党政治や国際協調を理想としながら、苦悩の末、太平洋戦争の開戦を決断したことや、戦後、戦争に強い後悔の念を抱きつつ、「象徴天皇」となっても外交や治安の問題に強い関心を示していたことが浮き彫りになりました。
 

昭和天皇実録とは

「昭和天皇実録」は、昭和天皇の活動を後世に伝えるため、日々の動静や関わりのある政治や社会情勢について、客観的な資料を基に日誌のような形で年代順に記した記録集です。
すべての内容を公開し、書籍として出版することを前提に編さんされた初めての天皇実録で、一部を除いて口語体で記述されました。
昭和天皇は確かな記録の残る歴代の天皇では最も長寿で、在位期間も62年余りに及んだうえ、戦前から戦後という激動の時代背景もあって、歴代の天皇実録の中で最も長編になりました。
本文は1万2000ページ余りからなり、目次などを加えて61巻にまとめられていて、本を立てて並べても、幅は1メートル80センチになります。
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編さんにあたって、宮内庁は、公文書をはじめ未公開の日誌や側近の日記、それに外交や防衛関連の文書など、およそ3000件に上る資料を集めました。
各都道府県や海外にも職員を派遣し、当時の幹部や側近など50人近くからの聞き取りも行ったうえで、平成2年から24年5か月かけて完成させました。
NHKは今回、昭和天皇実録の公開に合わせて、近現代史が専門の第一線の研究者と共に内容を詳しく分析しました。

幼少期の珍しいエピソード

実録ではこれまであまり知られていなかった昭和天皇の子どものころのエピソードがふんだんに盛り込まれています。
このうち初めて公開された学習院初等学科4年生の時の作文では、両親の大正天皇と貞明皇后が運動会を見に来たことについて、「おもう様とおたた様とが午後一時にいらつしやつて下さいまして私は大そううれしく思ひました」と感想を述べ、「三等賞のめたるを取つた時は大そううれしうございました」とつづっています。
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また、同じころに記した日記の内容も初めて明らかになりました。
明治44年8月27日、昭和天皇が10歳の時の日記で、軍事演習を初めて見たことについて「私は前から一ぺんみたいと思つてゐた所へ今日はじめて見られたからうれしかつた」と書かれています。
そして、「西軍のれんたい長は『つゝこめ』とごうれいをくだした。西軍は勇しく時のこゑを上げて敵じんにせめいつた」と、演習の様子を臨場感豊かに描いています。
天皇家の慣習で親元を離れて育てられた昭和天皇が、9歳のころ両親に出した絵はがきでは、「毎朝すこしおさらひをしてそれから山や野原などへあみを持って蟲とりにでゝうんどうをします」と日々の様子が書かれています。
一方、5歳のころ、教育係の職員からことばづかいを注意されたり、祖母からもらったゾウのおもちゃを壊して側近に諭されたりと、昭和天皇のやんちゃな一面をうかがわせるエピソードもありました。
また、両親からクリスマス・プレゼントとして靴下に入ったおもちゃをもらったという記述もあり、戦前から皇室にクリスマスの習慣があったことが分かります。
幼いころから研究熱心だったことを示すエピソードもあります。
8歳のころ、貝殻の採集が好きで、集めてきてはきちんと分類したとされるほか、9歳のとき両国国技館を訪れた際には、力士の年齢や身長、体重などを基に取り組みの結果を予想しながら熱心に相撲を観戦したということです。
イソップ物語にちなんで、自分でも「裕仁新イソップ」と題して、魚や動物が登場する物語を作ったことも記されています。
昭和史に詳しい作家の半藤一利さんは「昭和天皇の幼少期の記録はいままで見たことがなく、貴重だと思う。子どものときから相撲がこんなに好きだったのかとか、こういうふうにして人格が形成されていったのかと大変納得がいく」と話しています。

戦争の悲惨さを実感

皇太子時代の19歳のときに初めての海外となるヨーロッパ歴訪の旅に出たことも詳しく記述されています。
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イギリスでは国王ジョージ5世と、当時、社会問題になっていた炭鉱労働者のストライキなどについて話したり、ケンブリッジ大学で立憲君主制についての講義を受けたりしたほか、70センチを超えるサケの大物を釣り上げたということも書かれています。
フランスのパリではエッフェル塔に登ったり、お忍びでパリ市内を散策して両親へのお土産にカフスボタンや首飾りを買ったりしたということで、昭和天皇がパリで乗った地下鉄の切符を生涯大切に取っておいたという逸話も紹介されています。
一方、第一次世界大戦の戦場の跡も視察しています。
当時は、大戦が終わってまもない時期で、昭和天皇は、戦闘で徹底的に破壊された村などを訪れました。
戦争で家族を亡くしたとみられる女性が遺骨を集める姿などを見て、「戦争というものは実に悲惨なものだ」との感想をもらしたと記録されていて、昭和天皇がこの訪問を通して世界平和の重要性を強く認識したことがうかがえます。
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京都大学の伊藤之雄教授は、「世界平和とか国際協調という方向に向けて、日本を国際社会の中で発展させていこうという確信を昭和天皇は持ったと思う」と話します。

政党政治と国際協調を理想に

ヨーロッパ訪問などを通して、昭和天皇は、立憲君主制を理想とし、政党政治や国際協調を重視していたというのが有力な学説となっています。
実録でもそうしたことを裏付ける記述があります。
初めての男子普通選挙が行われた昭和3年2月、投票を済ませて出勤してきた侍従に、投票所の様子などを尋ねたことが記されているほか、2年後の総選挙の際も、侍従のいる部屋に来て、投票結果が書かれた新聞を見ながら、みずから手回し式の計算機を使って票を集計したことが紹介されています。
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また、軍部の工作が活発化し中国との間の緊張が高まっていた昭和12年1月には、陸軍大将の宇垣一成に次の内閣を作るよう命じた際、「侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように」などと述べたと記されています。
こうした記述はこれまで知られていない新たな事実だということで、政党政治を好ましく思い、外交による解決を模索していた昭和天皇の姿が浮かび上がってきます。

苦渋の開戦決断

しかし、昭和天皇の思いとは逆に日中戦争が始まり、それが泥沼化していくなかで、政府や軍部には、アメリカとの開戦は避けられないという意見が強まっていきます。
太平洋戦争開戦の3か月前の昭和16年9月5日、昭和天皇は陸軍の参謀総長から「東南アジアなどへの進出作戦はおよそ5か月で終わる見込みだ」という報告を受けると、「中国との戦争も早く終わると言っていたのにいまだに終わっていない」と叱責し、軍の見通しの甘さを指摘します。
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翌日の御前会議では、昭和天皇は、明治天皇が詠んだ和歌を読み上げます。
「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」という和歌は、「四方の海が皆、同胞と思う世の中になぜ波風が立ち騒ぐことがあろうか」という意味で、明治天皇が平和を祈った歌だと言われています。
御前会議では、天皇は黙って報告を聞いてそれを認可するというのが慣例だったいうことですが、このとき昭和天皇は、和歌を読み上げることでみずからの気持ちを伝えようとしたのです。
しかし政府や軍部の判断は変わらず、12月1日の御前会議で開戦が最終的に決定しました。
実録には、御前会議が終わったあと、昭和天皇が「開戦の決定はやむをえない」と述べたことが記されています。
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日本大学の古川隆久教授は、「相手国の立場も理解して話し合いを重ねるべきだというのが昭和天皇の考え方だったが、苦悩しながら最後は自分なりに判断して開戦を決めた過程が実録の記述から浮き彫りになっている。国の仕組みは変わったが、国際的な緊張が再び高まっている時代に、日本がどのように行動したらいいかを考える材料にもなるのではないか」と話しています。

終戦後の昭和天皇の発言は

昭和天皇は、GHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー元帥と終戦の直後から昭和26年まで11回にわたって会見していて、その内容が明らかになるかも注目されました。
1回目の会見については、すでに公開されている記録の会話部分が全文引用され、昭和天皇の「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」という発言などが記されています。
戦争の責任を認めたとされる「すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身を連合国の裁決にゆだねる」という発言も、マッカーサーの回顧録などに記載されていることを紹介するという形で記されました。
一方、2回目以降については、会見が行われたことや会話の要旨などがこれまで明らかになっている範囲で書かれるにとどまりました。

戦争について繰り返し回顧

終戦後、昭和天皇が戦争に関するできごとを回想し、側近に書き取らせた、いわゆる「拝聴録」について、どのように記載されるかも注目点でした。
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終戦の翌年の昭和21年に行われた拝聴の内容は、平成に入ってから「独白録」として出版され、大きな反響を呼びましたが、それ以外は公になったことはなく、これまで断片的にしか知られていませんでした。
宮内庁によりますと、実録の編さんにあたって拝聴録について調査したものの、現物は見つからなかったということです。
しかし、実録では側近の日記などから拝聴が行われた時期やそのときのテーマなど全体像が初めて明らかにされ、昭和天皇が終戦直後だけでなく、晩年の昭和60年まで戦争について繰り返し振り返っていたことが改めて裏付けられました。
このうち昭和28年から翌年にかけての拝聴では、陸軍の謀略による昭和3年の張作霖爆殺事件から、その3年後の満州事変にかけて延べ5日間、7時間近くにわたって語ったと記されています。
神戸女学院大学の河西秀哉准教授は、「昭和天皇は、昭和初期に軍部の独走を止められなかったことが十数年後の太平洋戦争の開戦につながったという強い後悔の念を持っていたのではないか。拝聴録は戦争に向かう時代に昭和天皇が何を考えていたのかが分かる国民の財産であり、発見され公開されることを期待している」と話しています。

外交や治安に関心も

昭和天皇が、戦後も閣僚らと面会して外交や治安の問題に強い関心を示していたことをうかがわせる記述もあります。
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昭和天皇は戦後の憲法で象徴とされ、政治的な権限を持たなくなってからも閣僚や政府関係者と面会することを希望し、実録でも頻繁に会っていたことが記されています。
昭和28年4月には「朝鮮戦争の休戦に関する見通しについて外務大臣の意見を聞きたい」と側近に述べ、翌月、外務大臣が昭和天皇に拝謁したと記されています。
また、昭和29年に自衛隊が発足した直後には自衛隊の最高幹部と会って「日本の再軍備とアメリカの援助との関係」について質問したという記述があります。
このほか昭和35年の安保条約の改定を巡っては、国会議事堂周辺での抗議集会の状況をたびたび側近に尋ねる様子も描かれていて、外交や安全保障、治安などに強い関心を示していたことがうかがわれます。
神戸女学院大学の河西准教授は、「昭和天皇が自分から大臣の説明を求めているところからみても、戦後になっても立憲君主としての意識が残り、『内外の情報を知っておきたい』という考えを持ち続けていたことが分かる。今回の実録は、『象徴天皇とは何か』というテーマを考えるうえでも貴重な資料となるのではないか」と話しています。

注目の新発見資料も

今回の実録の編さんにあたっては、昭和史を知るうえで重要な資料も見つかりました。
研究者の間で特に注目されたのは「百武三郎日記」です。
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百武三郎は元海軍大将で、日中戦争開戦の前年・昭和11年の秋から終戦の前年の昭和19年の夏まで8年近くにわたって侍従長を務めました。
関係者によりますと、この間一日1ページ、年間1冊のペースでつけていた日記に加え、日々の行動を書き留めていた手帳やメモなどが残されていて、遺族の申し出によってこうした資料の存在が分かったということです。
当時宮内庁職員として、この日記の調査にあたった岩壁義光さんは、「ほかの資料では分からない事実や側近として耳にした昭和天皇の肉声と思われることばが書かれていて、大変貴重な資料だということが見た瞬間に分かった」と話します。
実録では、この日記や手帳は、百武侍従長の在任期間のおよそ80%に当たる2233日にわたって出典として挙げられています。
昭和14年に、昭和天皇が「歴史研究者の、皇室に関して何も批評しない講義は、聴講しても何の役にも立たない」などと当時の社会風潮を反映した学問について批判的な意見を率直に述べる様子が記されていますが、こうした発言は今回、初めて明らかになったもので、百武侍従長の日記などが基になっているとみられます。
戦前から戦中の宮中と政治の関係に詳しい明治大学の茶谷誠一兼任講師は「この時期は天皇や側近の動きを知るうえで核となる人物の日記などがほとんど残されていない資料の空白期なので、百武の日記が残っていたこと自体が大きなニュースだ。内容が公開されれば、宮中の動きだけでなく日中戦争期の政治外交史の新事実が出てくる可能性が高い」と話しています。

情報開示求める声も

「百武三郎日記」など昭和史の研究を深めるうえで貴重な資料は、ほかにもあるとみられます。
しかし、皇室の私的な文書とされ公開や閲覧の対象から除かれているものがあるほか、宮内庁が資料を集める際の提供者との契約によって資料の名前すら明らかにされていないものもあります。
研究者からは、実録の記述内容を検証するのが難しいとして、可能な限り開示するよう求める声が上がっています。
こうした資料についても今後、公開されることがあるのか注目されます。
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昭和天皇実録の公開は

昭和天皇実録は、情報公開請求に応じて近く一般にも公開され、来年の春から5年をかけて、順次、書籍として出版される予定です。
また、皇居・東御苑にある宮内庁書陵部の庁舎では、11月30日までの間、東御苑の閉園日の月曜や金曜を除く毎日、昭和天皇実録を閲覧することができます。
詳しくは、宮内庁のホームページに掲載されています。

2014年2月22日土曜日

無策愚策だったのではなぃか? 前パーナンキFRB議長


「FRBの政策は適切」リーマン危機直後に前議長 08年議事録

            2014/2/22 3:31    日本経済新聞 電子版

  米連邦準備理事会(FRB)は21日、

米国発の金融危機が起きた2008年分の米連邦公開市場委員会(FOMC)

の詳細な議事録を公表した。

 米証券大手リーマン・ブラザーズが経営破綻した直後の定例会合では

利下げを見送ったうえ、

バーナンキFRB議長(当時)が

「我々の金融政策は実際のところ非常に良いと思える」などと発言。

この時点でFRB幹部も

危機の深刻さを把握しきれていなかったことが明らかになった。

 議事録は08年1月から12月まで、臨時会合も含めた14回分。

リーマン破綻翌日の9月16日に開いた定例会合で

FOMCは政策金利の誘導目標を年2%に据え置くと決定。

 バーナンキ氏は「今年(08年)前半の我々の素早い対応は、

論争の的になり不確かなものでもあったが、適切だった」と指摘した。

 07年の「サブプライム・ショック」後に

投入した市場への資金供給策や08年前半の利下げ、

同年春の米証券大手ベアー・スターンズの救済が

念頭にあったとみられる。

 FRBとしてはすでに可能な限りの対策を実施したとの認識をにじませ、

それ以上の危機対応には慎重な姿勢を示した。

 実際には、その後の危機の深まりを受け、

08年10月上旬に開いた臨時会合で緊急利下げに追い込まれた。

 FOMCは米国の金融政策を決める会合。

 運営するFRBは

各会合の3週間後に議論の概要を記した議事要旨を発表するが、

個々の発言者名や詳しい内容に踏み込んだ議事録は

満5年を経てから公にしている

米FRB・FOMCの愚策2008年リーマン・ショック対策議事録

リーマン破綻翌日、FOMCなお楽観視 議事録公開 
                 2014/2/22 10:49
   米連邦準備理事会(FRB)は21日、
2008年に開いた米連邦公開市場委員会(FOMC)の議事録を公表した。
大手証券リーマン・ブラザーズが破綻した翌日の9月16日の会合で、
バーナンキ議長(当時)は「現行の政策金利の水準は適切」と述べるなど、
FRBが金融危機の広がりをなお過小評価していたことが明らかになった。
破綻直後のリーマン・ブラザーズ本社=ロイター
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破綻直後のリーマン・ブラザーズ本社=ロイター

 FRBは会合から5年経過後に1年分のFOMC議事録をまとめて公表している。
今回公表された08年はベア・スターンズ救済、リーマン破綻、事実上のゼロ金利政策
量的緩和の導入など金融危機がピークに達し、
FRBが異例の政策対応を始めた時期にあたる。

 9月16日の会合では、リーマン破綻の市場への影響を警戒する声は出た。
ただ、金融政策についてはバーナンキ議長が「今年初めの利下げは適切だった」と述べ、
追加利下げはすぐには必要はないとの判断を下した。
議長は追加利下げが「ドル相場や商品相場に及ぼす影響」も考慮すべきだと指摘した。

 ブラード・セントルイス連銀総裁は
「政府系住宅金融機関、リーマン、メリルリンチという3つの不安要因が解決された。
これは経済にはプラスだ」と楽観的な見解を示した。
現FRB議長で当時はサンフランシスコ連銀総裁だった
イエレン氏は「経済の下降リスクを懸念する。
インフレのリスクは減っている」と述べたものの、政策金利の維持には同意した。

 この会合以降、金融危機が世界経済に深刻な打撃を及ぼすことが明らかになり、
FRBも危機感を強めた。
08年10月は欧州の中央銀行などとの協調利下げといった追加緩和に動き、
同12月には事実上のゼロ金利政策を導入した。

危機時の議事録が示す金融政策の宿命
           14/2/22 10:50


 21日の米株式相場は反落したが、ダウ工業株30種平均の下げは29ドルと小さかった。
景気指標がさえないわりに相場が底堅いのは、
米連邦準備理事会(FRB)による事実上のゼロ金利政策が長期間続くとの期待が根強いためだという。
 相場を大きく動かしたわけではないが、
この日の話題はFRBが2008年に開いた米連邦公開市場委員会(FOMC)の詳細な議事録だった。
5年の守秘期間を経て公開された計千ページを超える文書。
証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに広がった金融危機の時期に
米金融当局が何を考え政策運営に当たっていたか、その肉声が伝わる。
 「我々の政策は実際のところ非常に良好と思える」「現在の政策金利の水準は適切だ」。
リーマン破綻翌日の9月16日の定例会合でバーナンキ議長(当時)は追加利下げの必要なしと指摘。
この時点でFRB幹部が危機の深刻さを把握しきれていなかったことが明らかになった。
「我々には十分な情報がない」。
バーナンキ氏は拙速な行動を戒めたが、結果的に危機対応に出遅れた。
 自己責任原則を盾にリーマンを救わなかったことは「明らかによかった」
              (リッチモンド連銀のラッカー総裁)との声が出た。
これは証券大手ベア・スターンズ、住宅金融公社の救済で
「支援疲れ」に陥った当時の共和党政権にも共通したムードだった。
危機が恐ろしい勢いで世界に伝染するまでは。
 「米経済とFRBにとって歴史的な局面にいる」
「これは穏やかな景気後退ではない。普通の金融危機ではない」
         (いずれも08年12月15~16日の会合)。
物静かな学者だったバーナンキ氏が果敢な危機管理官に変身し、
事実上のゼロ金利と量的緩和に突き進むまでにさほど時間はかからなかった。
 今回、議事録の中身とともに市場で関心を集めていたのが
FRBによる公表のタイミングだ。
例年1月なのが、2月後半にずれ込んだ。
臨時会合を含め14回分もの議事録だから(通常は年8回)まとめるのに時間がかかったか。
あるいはイエレン現議長への交代を控えた微妙な時期に、
かつてのFRB内部の混乱ぶりをさらすような文書を出さないよう配慮したのか。
 FRBの報道担当者は問い合わせに対し「公表時期はもともと正確に決まっていない。
過去には4月ごろ発表したこともある」とはぐらかした。
 そのイエレン現議長は08年当時、サンフランシスコ連銀総裁としてFOMCに参加していた。
9月半ばの会合では「実体経済の下降リスクを懸念する」としつつも、
金利据え置きには賛成した。
 バーナンキ氏、イエレン氏、ラッカー氏、それに当時の政府関係者。
今回の議事録を読み返したらそれぞれに苦い思いがこみ上げてくるはずだ。
しかしそれは結果を知る5年後の今だからいえることだろう。
 「バブルは崩壊して初めてわかる」と言ったのはグリーンスパン元議長だった。
専門家集団をもってしても経済の正確な予見は難しい。
対応が後手に回りがちなのは金融政策の本質的な宿命かもしれない。
 現在イエレン議長は、
物価と失業率を目安に金利の道筋を示す政策指針(フォワードガイダンス)の
見直しに直面している。
自ら導入を主張した政策手法だが、
目安とする失業率の水準が実態に合わなくなり、
後追い的な修正を迫られている。
 議事録公表で一区切り付け、
名実ともに金融危機を過去のものにしてほしいところだが、
中央銀行への市場の期待と、実際にできることとの差にFRBが悩む日は続きそうだ。

バーナンキFRB議長、31日退任 異例の緩和で恐慌回避

2014/1/31 2:00  日本経済新聞 電子版


 2006年から8年にわたって米金融政策の手綱を握ったバーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長が
31日、退任する。 経済学者から中央銀行に転じ、未曽有の金融危機への対応の最前線に立ったバーナンキ氏。
金融危機が大恐慌に転じるのは食い止めたが、異例の金融緩和策で試行錯誤を余儀なくされた。
■試行錯誤の8年
 「実践としては機能したが、理論通りには機能しなかった」。
1月16日、ワシントンでの講演で量的金融緩和に触れたバーナンキ氏の言葉には、
学者から中銀の実務家に転じた苦労が凝縮されている。
 学者時代に大恐慌を研究し、
1930年代のFRBの不十分な金融緩和が恐慌を深刻にしたという教訓を導いた。
日銀の金融政策も厳しく批判。
デフレ脱却に国債などの資産購入や、為替介入など積極的な政策をとるよう提言した。
 06年の議長就任から1年半後の07年に米サブプライム危機が発生。
08年のリーマン危機後には、政策金利をほぼゼロ%まで下げ、
量的緩和という非伝統的政策に踏み出したが、
その道筋は学者時代の提言のように簡単なものではなかった。
 国債などの購入で、
FRBの総資産は危機前の8000億ドル(約80兆円)程度から直近では4兆ドルに膨らんだ。
緩和策の中身も試行錯誤を重ね、量的緩和は現在実施中の第3弾にまで及んだ。
リーマン危機から5年が過ぎ、株価や住宅など資産価格は回復したが、
景気回復の勢いは過去の回復局面に比べると鈍い。
物価上昇率もFRBの目標の2%を下回る水準が続く。
 異例の金融政策は、リーマン危機後の市場安定策として威力を発揮したが、
需要創出には期待されたほどの効果がなかったという批判は米学界やFRB内にもある。
議会では共和党を中心にFRBの政策を批判する声があがった。
量的緩和と並ぶ政策の柱に据えた将来の金融政策の道筋を示す
「フォワードガイダンス」でも、市場との対話がぎくしゃくする場面があった。
■透明性に腐心
 バーナンキ氏は「開かれたFRB」を推進した。
独裁的な政策運営が目立ったグリーンスパン前議長の路線を転換。
米連邦公開市場委員会(FOMC)で自由な議論を促し、
議長記者会見や経済・物価見通しの公表も始めた。
この8年間でFRBから発信される情報量は飛躍的に増え政策の透明性は高まったが、
FOMCのメンバーが自由に発言しすぎて、かえって混乱を招くという批判もある。
 「支持40%、不支持35%、わからない25%」。
ギャラップ社が25~26日に実施した世論調査ではバーナンキ議長の仕事への評価は大きく割れた。
 1930年代の大恐慌時代の中央銀行の失敗を研究した
ライアカット・アハメド氏(ブルッキングス研究所理事)は
「FRBとして経済回復のために可能な限りの実験をしたことは評価すべきだ」と指摘する。
 29日、昨年12月に続いて量的緩和の縮小を決めたバーナンキ議長。
異例の緩和策の出口へ踏み出したが、
金融政策の正常化という課題はイエレン次期議長に委ねる。
バーナンキ時代の評価も、その成否に左右されることになりそうだ。
 
「ヘリコプター・ベン」 バーナンキFRB議長の8年
               2014/1/30 9:30
 米連邦準備理事会(FRB)は29日まで米連邦公開市場委員会(FOMC)を開き、
昨年12月に続いて2会合連続で量的金融緩和の縮小を決めました。
市場で購入する長期証券の金額を2月から100億ドル減らし、月650億ドルとします。
バーナンキFRB議長は1月末で退任します。
バーナンキ氏は議長就任前の学者時代に
「不景気になれば、ヘリコプターからドル札をばら撒けばよい」と発言。
就任後、量的緩和政策を実行に移し、「ヘリコプター・ベン」の異名をとりました。
今後、FRBがイエレン新議長のもと、
世界経済に深刻な打撃を与えることなく緩和縮小できるか否かで、
バーナンキ氏の歴史上の評価も大きく変わることになるでしょう。
バーナンキFRB議長の8年間を振り返りました。

リーマンまさかの破綻劇 土壇場で英が「待った」
              2013/9/1 2:00  日本経済新聞 電子版
 総資産60兆円超の巨大証券は大き過ぎてつぶせない。だれもがそう考えていた。
2008年9月15日、「まさか」の破綻劇に世界は揺れた。
米政府はなぜ、リーマンを救わなかったのか。その答えは、
公的資金を巡る米英の思惑のすれ違いにあったことが関係者の証言でわかった。



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■CEO緊急招集

 9月12日金曜日の夕方、ニューヨーク連銀本部に黒塗りの高級車が次々と横づけになった。
JPモルガン・チェース、ゴールドマン・サックスなどウォール街の
主要金融機関9社の首脳らが足早に館内に入った。

 招集をかけたのは、米財務長官ヘンリー・ポールソン。
ニューヨーク連銀総裁ティモシー・ガイトナー、
米証券取引委員会(SEC)委員長クリストファー・コックスとともに、
リーマンの資金繰り悪化を説明し、休日中に解決策をまとめてほしいと訴え、
こう付け加えた。「公的資金は絶対に使わない」

 半年前の3月、資金繰り難に陥った米証券5位ベアー・スターンズを米政府は事実上救済した。
ベアーの不良資産をニューヨーク連銀が実質的に引き取り、JPモルガンによる買収を後押しした。
だが、高額報酬をはむウォール街をなぜ税金で救うのかと米議会が反発、
ベアー救済もやり玉にあがっていた。

 「次は4位のリーマンが危ない」。この半年、リーマンは追い詰められていた。
商業用不動産投融資の失敗がささやかれ、
ヘッジファンドは契約を解除、銀行も融資に担保を求め出した。
最高経営責任者(CEO)リチャード・ファルドは出資者を求め、
韓国産業銀行(KDB)などの名前が浮かんでは消えた。

 まだ2つの大手銀行がリーマン買収に関心を示していた。
その一つ、バンク・オブ・アメリカが証券3位メリルリンチの買収に転じると、
交渉は英バークレイズに絞られた。
 米国での証券業務拡大を目指す社長のロバート・ダイヤモンドは乗り気だった。
13日土曜日の夜、計画ができた。
損失を抱える不動産部門を分離、残った健全部門に約5000億円を出資する。
資金の一部は提携する三井住友銀行に出してもらう手はずも整えた。
■一旦は交渉成立

 問題は不動産部門を誰が引き受けるか。
14日日曜日の朝、ニューヨーク連銀に再び集まったウォール街の首脳が決断した。
不良資産の受け皿機関に10社強が総額3兆円強を融資する。
損失を肩代わりするに等しいが、
リーマン破綻で自らに跳ね返る損害を考えれば、コストは小さいと判断した。
交渉成立の報は、東京の三井住友にも伝えられた。

 だが、直後に舞台は暗転する。
英金融サービス機構(FSA)が「規定で臨時株主総会が必要だ」と、くぎをさしてきた。
時間の余裕はなかった。
「適用除外にできないか」と米側が求めると、
英FSAは「本件は財務相の案件だ」とさらりと突き放した。

 ポールソンらは怒りを爆発させたが、英政府に買収を承認する意思はなかった。
リーマンは15日月曜日午前1時45分、米連邦破産法11条の適用を申請した。

 英国にも言い分があった。
買収の発表から完了までの間、バークレイズはリーマンの取引を保証する必要があった。
米政府支援がない状態でリスクをとれば、
英国民の税金で米証券の損失を処理しなければならない事態も想定される。
国内世論の批判に耐えられなかったはずだ――。
国際通貨基金(IMF)の元幹部はそう解説する。

 金融はグローバル化しているのに監督は国ごと、危機対応のコストは各国納税者が負う。
税金投入につながる公的支援にはただでさえ世論の反発があるが、
格差批判の高まりが政治判断をより慎重にさせていた。
市場と政治の溝がかつてなく広がり、世界中がのみ込まれたのがリーマン危機だった。
その構図は今も変わらない。

リーマン破綻直後の動きを振り返る   2013/8/26 2:00
    

  2008年9月15日、米証券大手リーマン・ブラザーズが米連邦破産法の適用を申請、
経営破綻。
 その発端となったのは
米国のサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)の焦げ付き問題。
 当初、日米政府・金融当局の見通しは甘く、
破綻の影響は限定的とにらんでいたが、
直後に、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という金融商品を
世界の金融機関に販売していた米保険最大手AIGの経営危機と米政府による救済劇に発展。
世界同時株安・信用収縮が一気に進行し、世界経済は奈落の底へ沈みかけることになった。