2012年12月31日月曜日

 「あくび」のヒミツ

性のメカニズムと関係も? 「あくび」のヒミツ
働きもののカラダの仕組み 


 あくびは気持ちいいですね。でもなぜか、人前でははばかられることになっています。だけど体の素直な欲求なのだから、きっと深い意味があるに違いない。そう思って話を聞いてみると思いも寄らなかったあくびの起源が浮上してきました。それは何? かなり意外な展開です。





画像の拡大


 あくびは不思議な現象だ。深い呼吸と、口を思いっきり開ける動作、腕や脚を伸ばす動作などが連動して起きる。それらがあたかも自動的に、どこかから降って湧いたように生じる。

 これらの動作は意識的にもできるけれど、そうやって動きを真似しても、本物のあくびのあの心地よい感じは出てこない。

 あくびってそもそも何なのだろう。あくびの生理に詳しい脳生理学者、東邦大学教授の有田秀穂さんにたずねてみた。

 「あくびの機能は、いまだに謎が多いのですよ」。有田さんはこんなふうに語り始めた。



■あくびをすると覚醒の脳波が出る

 人間以外の動物たちもあくびをする。ペットを飼っている人なら、犬や猫、インコ、カメなどがあくびする姿をよく目にしていると思う。それだけ広い範囲の生き物があくびするということは、あくびの起源もかなり古いのだろうか。

 「その通り。あくびの中枢は、脳の視床下部の中にある室膀核という場所です。ここは脳の中でも原始的、つまり進化の過程で古い時代から残っている場所なので、かなり遠い祖先にあたる生き物もあくびをしていたと考えられます」

 室膀核が発するあくび指令シグナルは、脳のいろいろな部位に届く。多数の部位を同時に働かせることで、「あくび」という複合的な動作が成立する。なかなか複雑なのだ。



画像の拡大


 このときに脳波を測定すると、β波に代表される覚醒時の脳波が観察される。

 「あくびが体に与える作用として確実にわかっているのは、この覚醒作用です」

 有田さんによると、あくびが出やすいのは、覚醒と睡眠の境界から覚醒に向かうときだという。例えば朝のあくびは、体を睡眠から覚醒へ誘導する。夜のあくびは、眠いときに目を覚まそうと頑張っている姿といえる。


「夜の運転中は、よくあくびが出るでしょう? あれは、寝てはいけないと思っているから、出るのです。だから、退屈な講義や会議であくびが出るのは、起きようとする気持ちの表れ。ほめるべき行動です」

 一方、ストレスなどで過度に緊張したときにも、あくびが出やすい。これは、緊張をゆるめることで覚醒を促す行動と考えられる。「昔の将棋の名人で、大事な一手を指す前に必ずあくびをする人がいました。あくびで頭がさえることを、体が知っていたのでしょうね」



■あくびの起源は性行動?

 ここで有田さんの口から、気になる一言が出てきた。

 「もっとも覚醒だけなら、あくびの真似をして手足を伸ばすだけでも、ある程度効果があるのですよ。ストレッチで筋肉を伸ばせばスッキリするでしょ」

 確かに。でもあくびの心地よさは、普通のストレッチとは違う。では、あくびって結局何なのだろう? と、有田さんはおもむろにこんな話を始めた。

 「室傍核からあくび指令を発するのはオキシトシン神経ですが、このとき同時に男性では勃起を誘導します。つまり、性行動と関連がある神経なのです」
 
え、性行動? またずいぶん話が飛躍したが、オキシトシンは女性の分娩時の子宮収縮を誘導するなど、生殖機能と関わりが深いホルモン。性行動と結びついていてもおかしくはない。
 「そう。あくびの起源は性行動と関連がある、というのが私の推論。ほら、サケの産卵で、雄と雌が身を寄せてかーっと口を開けますね。あの姿はあくびに似ていると思いませんか」
 ほー、いわれてみればそう見えなくもない。あれが進化してあくびになったのか? だからストレッチより気持ちいいの? 真相は謎だが、興味深い。
 ちなみにあくびには、肺を広げて呼吸効率を高める作用もある。なるべく我慢しない方が、体にいいのは確かです。
 

2012年12月30日日曜日

1968年、学生はなぜ怒り狂ったのか 池上彰の教養講座

1968年、学生はなぜ怒り狂ったのか
現代日本を知るために(12)東工大講義録から


                                                  2012/12/31 3:30
 
 1968年(昭和43年)は、先進各国で学生の反乱が起きました。フランス・パリではパリ大学の学生たちの反乱「五月革命」が起き、パリの学生街カルチェ・ラタンは学生で埋め尽くされました。

 同時期、米国・ニューヨークのコロンビア大学では、ベトナム戦争に反対する学生たちが大学を占拠します。この事件は、映画『いちご白書』のモデルになりました。

 こうした行動は全米各地に拡大し、鎮圧に出動した州兵の発砲で学生が死亡する事件も起きました。

 なぜ世界同時の学生反乱が起きたのか。ベトナム戦争への嫌悪感が背景にあったとはいえ、解明しきれていない現象です。

 日本では、東京大学と日本大学で始まりました。




世界でベトナム戦争に反対する運動が広がった(この戦争は1973年のパリ和平協定調印に基づき米軍が撤退した後、1975年の南ベトナム・サイゴンの陥落で終結した)=AP
画像の拡大

世界でベトナム戦争に反対する運動が広がった(この戦争は1973年のパリ和平協定調印に基づき米軍が撤退した後、1975年の南ベトナム・サイゴンの陥落で終結した)=AP



日本の始まりは東大医学部

 1968年1月、東大医学部の学生自治会が、医学部学生のインターン制度(無給の研修制度)の改革を要求し、医学部の教授を長時間拘束する事件が起きます。大学は、事件に関わった学生17人を退学や停学処分にします。

 ところが、当時現場にいなかった学生までが処分されたのです。冤罪(えんざい)でしたが、医学部教授会は非を認めませんでした。

 怒った学生は6月15日、東大のシンボルである安田講堂を占拠します。驚いた大学は、警察の出動を要請。学生は講堂から逃げ出しますが、これをきっかけに、医学部の闘争は全学規模に拡大しました。



東大安田講堂は全国の学生運動のシンボルになった(立てこもりの舞台となった東京・本郷の東大安田講堂。1969年1月18日)=共同
画像の拡大
東大安田講堂は全国の学生運動のシンボルになった(立てこもりの舞台となった東京・本郷の東大安田講堂。1969年1月18日)=共同

 大学院生を中心に全学闘争連合が結成され、7月、安田講堂を再び占拠します。翌年1月に機動隊によって封鎖が解除されるまで、学生たちが籠城。安田講堂は、学生運動のシンボルになります。

 安田講堂の中では、大学院生ばかりでなく学部の学生も含めて4000人が集まり、「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成されました。当時、大学院博士課程に在学していた山本義隆が議長に就任します。

 また、全学部の学生自治会は無期限ストに入りました。

 医学部の学生の問題が、なぜ全学規模の問題に発展したのか。当時の大学は、「学問の府」として、何物にも干渉されない聖域という意識が学生の間に強かったのです。警察が導入されるなど、当時の学生たちにはあってはならない出来事だったのです。いまでは考えられない意識ですが、これが当時の空気というものでした。

 一方、日本大学でも学生の怒りが爆発します。1968年(昭和43年)4月、東京国税局が、日大で使途不明金、約20億円を指摘したとの新聞報道が出ました。使途不明金は、最終的にはさらに膨れ上がります。これとは別に、理工学部教授が裏口入学で得た5000万円の脱税も明るみに出ました。



 これに怒った学生たち5000人が、5月、東京・神田の日大経済学部の建物周辺を埋め、全学総決起集会を開きます。この場で日大全共闘が結成されました。議長には経済学部学生会(自治会)の秋田明大(あけひろ)が就任します。

 学生たちは大学に対して団体交渉を要求しますが、大学側はこれを拒否。6月に学生たちが抗議集会を開くと、これを体育会系学生が襲撃します。全共闘の学生200人が負傷する事態となりました。

機動隊と衝突

 これをきっかけに、各学部の校舎を学生が封鎖。これは「バリケード封鎖」と呼ばれました。

 当時の日大は、体育会の学生たちが大学当局の命を受けて学生たちを監視し、自治会運動をする学生に対しては暴力を振るっていました。学内に言論の自由はなかったのです。

 その一方で、学費は全国一高く、学生数は定員を大きく上回っていました。たとえば芸術学部は定員450人に対して入学者は1500人。各学科の800人の学生に対して専任教員は2~3人というありさまでした。

 東大は機動隊導入という「学問の独立侵害への抗議」であり、日大は「金儲(もう)け主義への抗議」でした。

 大学は、東京地裁に封鎖解除の仮処分の申請をし、9月4日には機動隊が日大の封鎖を解除します。この際、校舎の中に立てこもっていた学生たちは投石。直撃を受けた機動隊員1人が死亡しました。



日大でも学生と大学側との対立が激しくなった(日大紛争で校舎入口で放水のホースを奪い合う学生たち。1968年)
画像の拡大
日大でも学生と大学側との対立が激しくなった(日大紛争で校舎入口で放水のホースを奪い合う学生たち。1968年)

 9月30日には、全共闘の要求に応えて、両国講堂で全学集会が開かれました。学生はこれを「大衆団交」と呼びました。実に3万5000人もの学生が集結し、古田重二良会頭以下理事に退陣を迫りました。この大衆団交は12時間も続き、結局、日大理事会は経理の公開や全理事の退陣を承認します。

 ところが翌日、古田会頭と親しかった佐藤栄作首相が「集団暴力は許せない」と発言。大学は学生との約束を反故(ほご)にします。

 こうして日大闘争は長期化。11月には東大・安田講堂前で「東大・日大闘争全国学生総決起集会」が開かれ、日大全共闘の学生が東大全共闘に合流しました。

 それまでの各大学には、学生全員が加盟する学生自治会があり、その全国組織が「全学連」(全日本学生自治会総連合)でした。全学連は、特に1960年(昭和35年)の安保闘争でその名をとどろかせ、「ゼンガクレン」はそのまま海外で通じる言葉になったほどです。

 しかし、全学連や学生自治会は学生が全員参加。意思の統一や行動には時間がかかります。そこで、「戦う者」が自由に参加できる全共闘組織が各大学に誕生します。こうした全共闘が中心になって、各大学で、それぞれの闘争課題をめぐって、次々にストライキに入ります。

全共闘の結成

 これに危機感を抱いた政府は、大学の管理を強化する法案を作成しました。通称「大学管理法案」です。これに反対する学生たちが、全国でストに入りました。政府の対応が、かえって学生たちの怒りに火をつけてしまったのです。

運動は当初、学生たちの支持を集めていた(東大の加藤学長が全学生との討論会中止を告げた後、リーダーで東大全共闘の山本義隆代表<中央右>が集会でアジ演説を始めた。1969年5月19日、安田講堂正面玄関)
画像の拡大
運動は当初、学生たちの支持を集めていた(東大の加藤学長が全学生との討論会中止を告げた後、リーダーで東大全共闘の山本義隆代表<中央右>が集会でアジ演説を始めた。1969年5月19日、安田講堂正面玄関)



 1969年(昭和44年)にはおよそ全国165の大学がストに入ったほどです。9月には全国全共闘連合が結成され、東大の山本義隆が議長、日大の秋田明大が副議長を務めました。



 この東京工業大学でも、学生たちが机や椅子でバリケードを築き、無期限ストに入ったのです。1969年(昭和44年)2月のことでした。

 きっかけは、大学が学生寮の規則を改正しようとしたことです(笑)。

 みんな笑ったね。学生寮の規則改正なら、学生寮に入っている学生たちが大学と交渉すればいい話だね。何も全学がストに入る必要はないと思うけど、当時は、ごくささいなことでも学生たちが怒っていたんだね。なぜあんなに皆が怒っていたのか。いまとなっては追体験できないけれど、それが、あの時代の空気だったんだ。

 東大や日大は全共闘という名称だったけど、東工大は全学闘争委員会という名前でした。当時の東工大には濃縮ウランやプルトニウムが保管されていて、学生たちがストに入ったことで、その管理が心配だと当時の新聞は報じています。

 結局、この年の7月、大学の要請で機動隊が出動。バリケード封鎖は解除されました。

 その後、全学闘争委員会のやり方に疑問や反感を持つ学生たちが「大学改革推進会議」を結成し、スト解除に動きます。そのリーダーが、やがて日本の首相になる菅直人でした。

 当時は米国がベトナム戦争の泥沼にはまっていました。多数の悲劇が報じられ、日本をはじめ世界各地でベトナム反戦運動が盛り上がっていました。この中に学生たちの反乱もあったのです。

 成田空港建設計画も持ち上がり、土地を失う農民たちが反対運動を開始すると、学生たちが農民支援に駆け付けます。



学生たちは米原子力空母の入港に反対した(佐世保に入港する米原子力空母エンタープライズ。1968年1月19日)=共同
画像の拡大
学生たちは米原子力空母の入港に反対した(佐世保に入港する米原子力空母エンタープライズ。1968年1月19日)=共同

 1968年(昭和43年)には米空母「エンタープライズ」が長崎県の佐世保に入港し、これに抗議する学生たちが機動隊と衝突しました。

 東京・新宿駅西口地下広場では週末になると学生や市民が集まって反戦歌を歌う「新宿フォークゲリラ」が社会現象になりました。

 こうした中で、東大では1969年(昭和44年)1月、大学の要請で機動隊が入り、安田講堂に籠城した学生たちと攻防戦を繰り広げます。

 一方、東京教育大学も筑波への移転に反対する学生が無期限ストに入り、両大学とも入試中止に追い込まれました。東京教育大学は、結局、茨城県の筑波に移転し、現在の筑波大学になります。



過激化した運動

 こうした学生運動の中心を担ったのは、特定の党派に属さない学生たちでした。これを「ノンセクト」と呼びました。

 しかし、学生運動を通じて、共産党とは別の共産主義の道を模索する過激な党派の勢力が拡大します。そうした党派は、他の党派との対抗上、より強硬で過激な戦術をとるようになり、みるみる過激になっていきました。

 中でも、共産同(共産主義者同盟)という組織は、1960年(昭和35年)の安保闘争で勢力を拡大した組織でしたが、闘争方針をめぐって分裂します。そこから生まれたのが、共産同赤軍派でした。





 赤軍派は、直ちに世界同時革命のために立ち上がるべきだと主張、そのために日本で武力革命を起こす準備を始めます。主力部隊は、山梨県の大菩薩峠で軍事訓練をしていたところを警察に見つかって逮捕され、組織は壊滅状態になります。

 残されたメンバーは、別の形で世界同時革命を模索。北朝鮮に渡って、軍事訓練を受け、武器を持って日本に帰還しようと考えます。北朝鮮がどんな国か、ろくに知りもしないままでした。

 1970年(昭和45年)3月、赤軍派の9人が日本航空機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮へ向かいました。当時の日航機には、それぞれ名前がついていたのです。

赤軍派が「よど号」を乗っ取り北朝鮮に向かった(ハイジャックされた「よど号」から解放された乗客。1970年4月3日、韓国・金浦空港)=共同
画像の拡大
赤軍派が「よど号」を乗っ取り北朝鮮に向かった(ハイジャックされた「よど号」から解放された乗客。1970年4月3日、韓国・金浦空港)=共同



 この事件をきっかけにハイジャック防止法が制定されました。

 彼らは犯行の前日、「我々は“明日(あした)のジョー”である」という宣言をまとめていました。当時人気だった漫画のタイトルでした。

 しかし、彼らはそのまま北朝鮮に留まることになり、いまも帰国していません。

 赤軍派の9人が北朝鮮に渡った後、残されたメンバーは、「世界同時革命」の拠点として中東のパレスチナを選びます。1972年(昭和47年)5月、3人の日本人がイスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射。24人を殺害する虐殺事件を引き起こしました。パレスチナに渡ったメンバーは、「日本から来た赤軍派」という意味の「日本赤軍」と呼ばれるようになります。

 さらに残された赤軍派は、京浜安保共闘という組織と合同して連合赤軍を結成します。彼らは群馬県の妙義山中で軍事訓練をしていましたが、警察に見つかって逃走。1972年(昭和47年)2月、山を越えて長野県の軽井沢に入り、保養所「あさま山荘」に5人が逃げ込んで、管理人の妻を人質に、包囲した警察の部隊と10日間の攻防戦を繰り広げました。

 事件解決後、彼らは妙義山中にいる間に仲間をリンチして殺害していたことが判明します。被疑者は14人にも上りました。

 この事件が日本社会に与えた衝撃は大きく、これ以降、日本の学生運動は低迷します。



内ゲバで学生運動自壊

 学生たちが学生運動から離れるきっかけは、他にもありました。共産同とは別の過激派組織である革共同(革命的共産主義者同盟)が中核派と革マル派に分裂して激しく対立。互いに相手を襲撃して、多数の死者を出すようになったのです。これは「内ゲバ」(内部ゲバルト=ゲバルトとはドイツ語で暴力のこと)と呼ばれました。

 1980年(昭和55年)10月には、ここ東工大から近い大田区南千束の洗足池図書館前で、革マル派活動家5人が中核派の襲撃を受け、全員殺害されました。

 このとき私はNHK社会部記者で警視庁詰めの事件記者。現場を取材しましたが、凄惨極まる事件でした。被害者のうち1人は元東工大生で、1人は現役の東工大生でした。

 中核派と革マル派以外の党派による内ゲバもあり、1970年(昭和45年)から1982年(昭和57年)までに死者計113人、負傷者約4600人に上りました。こうなると、多くの学生たちは一斉に学生運動から手を引きます。1968年(昭和43年)から始まった学生の反乱は終息したのです。





 では、どうしてこのような学生の反乱が起きたのでしょうか。

内ゲバは一般の人々の暮らしの中でも繰り広げられた(中核派と革マル派の内ゲバで新橋ホームに散乱するヘルメットや鉄パイプ。1975年7月17日、東京・新橋)
画像の拡大
内ゲバは一般の人々の暮らしの中でも繰り広げられた(中核派と革マル派の内ゲバで新橋ホームに散乱するヘルメットや鉄パイプ。1975年7月17日、東京・新橋)



 1965年(昭和40年)の高校進学率は70.7%、大学進学率(短期大学含む)は17%でした。それが1970年(昭和45年)には大学進学率が23.6%にまで増えます。

 大学が大衆化することで、マンモス教育の貧弱さに怒る学生が生まれます。

 その一方で、大学生は、まだまだエリート。世の中の矛盾に目が向き、なんとか現状を改革したいという正義感を抱くようになります。

 しかし、その多くは、ひとりよがりの行動でした。これが、さまざまな反乱を引き起こしたのです。

 また、ベトナム戦争の負傷者が日本に運び込まれて治療を受けるなど、身近なところに戦争の脅威を感じる時代でした。これが、若者たちを反戦運動に駆り立てました。

 しかし、いまになってみると、なぜあんなことが起きたのか、理由がつかめません。1968年(昭和43年)前後に世界で同時的に発生した学生の反乱。その分析は、現代史のひとつの課題でもあるのです。
 
 

 
 


2012年12月29日土曜日

「年越し」お札、3年連続最高の86兆円

「年越し」お札、3年連続最高の86兆円
タンス預金増加で                   2012/12/29付

 日銀は28日、家庭や企業、金融機関の金庫などで年を越すお札(日銀券)の合計が86兆円となり、過去最高を更新したと発表した。2011年末に比べて3.1%増加した。冬のボーナス支給や正月休暇を控えた年末は、現金需要が高まりやすい。年越しのお金が過去最高を更新するのは3年連続となる。

画像の拡大


 銀行券は1990年代半ば以降、増加を続けている。低金利を背景に銀行の預金に預ける動きが鈍り、タンス預金が増えていることが背景にあるとみられる。

 人口1人当たりで換算した現金保有は約70万円程度で、平均的な世帯人数を4人とすると、一世帯に約280万円の現金が保有されている計算になる。

 JPモルガン証券の足立正道シニアエコノミストは「低金利に加えて、デフレの長期化で物に対するお金の価値が上がっていることも、人々が現金を手元に置きたいという志向を強める背景にある」と指摘する。

2012年12月23日日曜日

小選挙区制の恐るべき前近代的前世紀的独裁政治弊害

自民を嫌い“ひどい民主”を選んだのはそもそも誰か?

 胸に刻むべき小選挙区制の怖さと政治へのバランス感


ダイヤモンドオンライン 2012年12月25日掲載) 2012年12月25日(火)配信
 
■まるでオセロゲームのコマめくりのよう3年前と激変した「民主崩壊、自民大勝」

 今回の衆院選挙の結果はそれなりに予想できたのだが、ここまで民主党が大敗するとは思っていなかった。政権与党である民主党は、自己の存在を否定されるような打撃を受けたことだろう。多くの国民は、約3年間の民主党政権の政策運営によほど大きな失望感を持ったということだ。

 政党別の獲得議席数を見比べると、自民党は国民から信認されたように見えるのだが、国民の心理はそれほど単純なものではない。

 たとえば、今回選挙の投票率は史上最低水準だった。おそらく国民は、わが国の政治に大きな期待を持っていなかったのだ。「多くを期待できない政治に、大切な時間を使っても空しいだけ」との意識があったと見られる。

 ただ今回の選挙で、「いくらなんでも民主党政権はひどい」という意思表示だけはしておくべきだと考えたのだろう。その結果が、自民党に政策運営を委ねるという格好に落ち着いた。だから、自民党も選挙結果の上に胡坐をかいていると、今後の実績次第では民主党の二の舞ということは十分にあり得る。安倍総裁自身もそうした発言をしている。

 もう1つ、我々が今回の選挙から学ぶべきことは、小選挙区比例代表並立制という現行の選挙制度の怖さだ。小選挙区制では、特定の選挙区で、対立候補よりも1票でも多くの票を獲得した候補者が勝者になる。

 逆に言えば、ライバルと1票差であっても落選するのである。
そうした選挙制度の下では、結果がどうしてもそのときの雰囲気や流れに左右されやすくなる。

 今から3年数ヵ月前の選挙で、国民は圧倒的に民主党を支持した。当時は“反自民”、あるいは“嫌自民”の流れがあり、それに乗っかる格好で多くの票が民主党に流れ、民主党政権ができ上がった。

 ところが、民主党は国民の期待を大きく裏切り、上手く表現できないほどの失望感を与えた。その結果は、今回のオセロゲームのような選挙結果に結びついた。選挙とは恐ろしいものだ。

「有権者の失望感」×「小選挙区制」
の図式が生み出す選挙結果の大変化

今回の選挙結果を総括すると、「有権者の失望感」×「小選挙区制」=「選挙結果の大変化」という構図を描くことができる。
つまり、有権者の失望感による投票行動と、小選挙区制という振れ幅の大きい結果を生みやすい制度の相乗効果によって、まさにオセロゲームで白が全て黒に代わるように、国民を失望させた民主党が壊滅的に議席を失い、何も変わっていない自民党が信じられないほどの議席を獲得したのである。
今から3年数ヵ月前の選挙で、多くの国民は民主党を圧倒的に支持した。結果として、実現が難しいマニフェストの美辞麗句や、耳触りのよい選挙演説に誘引されたことになる。そこには、自民党政治に対する反対の感情もあっただろう。
国民の選択は、当時の民主党を圧倒的多数で支持し、同党に政策運営を委ねた。ところが、約3年間の民主党の政策運営を見てきた結果、「とても民主党には任せられない」という結論を得た。
そして国民は、今回の選挙で誤りを犯したことを自ら認めたのである。有権者である我々は、3年数ヵ月前に大きな間違いを犯したことを肝に銘じる必要がある。当時、何故民主党の政策運営能力の欠如や、党としての意見集約ができない点を適正に評価できなかったのだろう。その点については、有権者サイドにも重要な責任がある。
労働組合をベースに、旧自民党系の広範囲な政治家たちを、反自民のロジックの下で糾合してでき上がった民主党は、“数の論理”を駆使して当初の目論見であった政権奪取に成功した。しかし、いざ政権を取ってみると、実務者が少なく、政策運営能力に乏しいことが明確になった。特に、鳩山、菅と続いた二代の首相に関しては、海外からも厳しい批判が上がるほどだった。
「民主党がひどい」という前に、彼らを選んだのは我々有権者であったことを、胸に手を当てて考えなければならない。

小選挙区制が招く政権不安定化リスク
「間違い」は国民自身に跳ね返る


 もう1つ、今回の選挙の教訓がある。それは、小選挙区制の怖さだ。現在のわが国の選挙の仕組みでは、今回のように白がほとんど全て黒に代わるような大変化が起きる。そうしたリスクを、我々はよく理解する必要がある。

 選挙結果が大きく振れること自体は、必ずしも悪いことではないかもしれない。政策運営能力のない政党が政権の座に安住することは、国民に大きなマイナスの効果を及ぼす可能性がある。それを防ぐためには、そうした政党を政権の座から追いだす必要があるからだ。

 しかし、選挙結果が大きく振れることは、政権担当の政党が短期間に代わる可能性が高まることを意味する。政権政党がころころ変わると、国として政策の一貫性を保つことが難しくなる。

 特に外交政策などに関しては、長い目で見た運営が必要になることが多い。そうした観点から見ると、現在の小選挙区制度を基礎としたわが国の仕組みには、無視できないリスクが潜んでいる。

 もともと小選挙区制度は、二大政党制に移行するために導入された仕組みだ。主な提唱者は、今回、未来の党で多くの議席を失った小沢一郎氏だという。そうして導入された政治の仕組みなのだが、わが国の政治状況を見ると、今のところ単純な二大政党制の方向には進んでいない。

 民主党と自民党という対立軸ができたかと思ったら、党利・党略に絡んだ様々な思惑を背景に、10を超える政党ができ上がってしまった。政党名を正確に記憶することすら難しい。当初の目的と違った方向へ動いている。

 しかも、選挙のたびに結果がこれだけ大きく振れる。国民が「結果として間違えてしまった」というのであれば、そのデメリットが国民に振りかかってくる。我々は、そうしたリスクがあることを自覚すべきだ。

将来世代も見据えた投票行動が重要に
政治に対するバランス感覚を持つべき


 最近の選挙に関する一連の流れを見ると、これから我々が考えなければならない点が2つあると思う。

 1つは、わが国の政治家の質の問題だ。前回の選挙で、民主党はほとんど実現不可能に近いようなマニフェストをつくり、喧伝した。もちろん、国民の多くはそれを鵜呑みにすることはなかっただろう。しかし、結果として、政策運営能力があまりあるとは思えない民主党に政権を委ねることになった。

 そうした事態を避けるためにも、まず、我々は日本の政治家の質について考え直す必要がある。結論から先に言えば、全幅の信頼がおけるような政治家はあまりいないことを、肝に銘じるべきだ。

 民主党の鳩山元首相は、沖縄の基地移転やエネルギーの問題について物議を醸すような発言を繰り返した。そうした発言を信じたい気持ちはあるだろうが、現実の問題として、多くの発言は絵に描いた餅で終わることが多かった。「わが国の政治家のクオリティはその程度」と、早めに悟ったがよい。マニフェストにしても、政治家自身も本気で実現できるとは思ってないかもしれない。

 もう1つは、我々自身が政治に関してバランス感覚を持つことだ。わが国の政治家に大きな期待をかけることが難しいのであれば、我々自身が政治のバランス感覚を持った方が良い。

 3年前、あれほど自民党を嫌って政権経験のない民主党を大勝させる一方、今回はオセロゲームのように政治状況をひっくり返してしまう。それでは、しっかりした政治体制を実現することはできない。

 むしろ我々自身が、長期的に国にとってのメリットを考えて行動すべきだ。人間は、とかく目の前にあるメリットを享受したいと思うものだ。そのため、短期的な恩恵を与えてくれそうな政党に支持が集中しがちだ。しかし、それではこれからも、長期的視点に立った国の将来像が描けない。

 時に自分たちが短期的に痛手を受けたとしても、子どもたちやその次の世代のことを考えて、意思決定をすることが必要だ。そうした姿勢を選挙のときも示さなければならない。そうでないと、次の世代が希望を持って生きられる国にはなれそうもない。

自民圧勝をもたらした小選挙区制の意義と

民主・第三極の選挙戦略を評価する


ダイヤモンドオンライン 2012年12月19日掲載) 2012年12月19日(水)配信
 
■「風」なき自民党の地滑り的大勝利:小選挙区制の威力を、肯定的に考える

 衆議院総選挙で、自民党(294議席)と公明党(31議席)で325議席を獲得した。参院で否決された法案を衆院で再可決できる、3分の2以上の議席数を確保する、圧倒的な大勝利だ。しかし、今回の総選挙は2005年・2009年と異なり、自民党に「風」が吹いたわけではなかった。民主党政権の失政に対する「懲罰」として、自民党が消極的に選択されただけだ。それがこれだけの圧勝となったことで、国民の間に戸惑いが広がっているようだ。

 小選挙区制が、自民党(296議席)→民主党(308議席)→自民党(294議席)と振り子のように第一党を入れ替える威力を持つことは、よく知られてきた。だが、これまでは「風が吹いた」選挙だったために、その本当の威力が隠されてきた。今回は、「風」が吹かなかったにもかかわらず、自民党の地滑り的大勝利となったことで、国民は改めて小選挙区制の凄まじさを認識させられたといえる。

 個人的には、今回の結果は想定の範囲内で驚きはない。しかし、巷には小選挙区制に対する批判が広がり始めているようだ。批判は、振り子のように議席数が増減するだけではない。自民の獲得議席数が、比例代表では定数の3割程度なのに、小選挙区では定数の8割を占めているように、自民党が衆院選で獲得した圧倒的な議席数が、民意と乖離しているという批判もある。
更に、小選挙区制では選挙区で1位になった候補者だけが当選し、たとえ1票差の接戦でも2位以下はすべて落選となり死票だらけになることも、民意の反映という点で疑問を呈されている。今後、中選挙区制の復活や比例代表制の拡大の主張が展開されていく可能性は高い。

 だが、この小選挙区制の威力は、むしろ肯定的に考えるべきではないだろうか。日本政治では、少数意見が過度に尊重され過ぎてきた。中小政党が、少数者の利益を強引に実現しようとしてきたことが、歴代政権の意思決定を混乱させ、財政赤字拡大を招いてきたのだ。今の日本政治に必要なのは、財源を考慮してさまざまな政策の優先順位を付けた包括的な政策パッケージを作る「政権担当能力」を持つ大政党であり、大政党に議会での安定多数を与えて円滑な意思決定を可能にする小選挙区制なのである
 
衆院で3分の2を超える議席を得て、安倍晋三新首相が強引な政権運営を行うのではないかという懸念がある。だが、新首相が強引な政権運営をしたいなら、やりたいようにやればいいのではないだろうか。但し、それが失政に終わったら、国民によって次期衆院選で容赦なく政権の座から引きずり降ろされるのだ。いや、それだけではない。たとえ現職の閣僚であっても、落選の危機に晒されてしまうのである。小選挙区制が続く限り、政治家は想像を絶する緊張感から逃れることはできない。しかし、この緊張感こそが、政治の質を向上させていくのだと考える(前連載第34回を参照のこと)。

「風」だけで政治は続けられない:
地道な活動の継続が政治家を育てる

小選挙区制だと、「風」で選挙結果が決まるため、まじめに政策を勉強する必要がなくなり、政治家が育ちにくいという批判もある。しかし、「第三極」と呼ばれた中小政党が、「日本維新の会」「みんなの党」を除くとほぼ壊滅した今回の選挙結果から見えるものは、「これでは政治家が育たない」というような、嘆かわしい状況ではない。
今回、自民党で2009年総選挙の落選から復活してきた者や、民主党で厳しい選挙戦をなんとか生き残ってきた者は、地道な政治活動の継続によって、世論の動向に左右されない地盤を築き、確固たる政策志向を持った政治家が多い。落選後に地道な活動を続けた、かつての「小泉チルドレン」が、今回復活してきている。
また、消費増税を実現させた財務相であった安住淳氏、震災対応に汗をかき続けた細野豪志氏などは、逆風にかかわらず圧勝している。本当に仕事をしてきた政治家は、きちんと国民に評価されているのだ。小選挙区制度下の厳しい環境でも、いい政治家はしっかり育っているのである。
逆に、第三極に走った者は、「風」だけでやれるほど政治は甘いものではないという厳しい現実を突き付けられた。特に、民主党からの離党者に言いたいことがある。彼らの選挙区の結果を検証すると、「民主党候補+離党者の得票数」の合計が、当選した自民党候補に勝っている選挙区は少なくない。

 もちろん、「分裂選挙」にならなかったら勝っていたと単純には言えないだろう。しかし、少なくとも言えることは、離党者が我慢して党内に留まって選挙を戦っていたら、生き残れたかもしれなかったということだ。離党してなんとか「救命ボート」に乗れば選挙で生き残れるというのは、実に浅はかな考えであった。離党者は、甘い考えでは政治はできないという現実を、厳粛に受け止めるべきである。

大惨敗でも、
野田首相に対する評価は変わらない


 野田佳彦首相が、総選挙大惨敗の責任を取って民主党代表の辞任を表明した。首相は国民の厳しい「審判」を受けたのは間違いない。だが、国民は政治家の「歴史的な評価」までは下せない。それは、将来の歴史家が下すものだ。

 この連載では、野田首相による消費増税実現を高く評価してきた(第40回を参照のこと)。「ねじれ国会」と党内の分裂という困難を乗り越えて、自民党・公明党との三党合意を成立させ、国会議員の8割の賛成により不人気な増税を実現させた政治手腕は驚嘆に値するものである。その高評価は、たとえ選挙で大敗しようとも、揺るぎないものだ。

 これまでも、不人気な政策に果敢に取り組み世論の批判を浴びた政治家が、後に高評価を受ける事例は多数存在する。例えば、1989年に竹下登首相(当時)が消費税導入を実現した時も、世論の厳しい批判に晒された。リクルート事件というスキャンダルの発覚もあり、竹下内閣は消費税法成立と同時に総辞職した。しかし、現在では消費税導入という難題を成し遂げた竹下氏の「政治手腕」は、極めて高く評価されている。野田首相も後世において「あの時、増税をして財政再建の第一歩を踏み出しておいてよかった」と高く評価される可能性は十分にある。

野田首相の戦略を評価する:
半分の成功と、半分の誤算


 この連載では、野田首相が解散に追い込まれたとする「政局論」と一線を画し、むしろ「政策論」の観点から、首相は自民党・公明党との解散時期を巡る駆け引きを、終始自分のペースで進めたと主張してきた。特に、野田首相が「政治生命」を賭けた消費増税の実現に関しては、衆院選で争点化しようとする勢力を、ほぼ無力化したと指摘した(第48回を参照のこと)。だが、野田首相は総選挙で惨敗した。果たして野田首相の解散戦略は正しかったのか、もう一度評価し直さねばならない。
 
結論から言えば、野田首相の戦略は、半分は誤算があり、半分は成功した。誤算は、小選挙区制の威力を甘く考えていたということだ。首相は、総選挙後の下野を覚悟していたのは間違いない。但し、自民党に対してこれほどの大惨敗を喫するとは考えていなかっただろう。
野田首相は、政権運営の稚拙さ、マニフェスト政策が殆んど実現できなかったこと、マニフェストに書かれていない消費増税実現に突き進んでしまったこと、そして、党内対立が続き、大量の離党者を出してしまったことなど、民主党政権が厳しい批判から逃れられないことを当然理解はしていた。
だが、一方で自民党の支持が広がっていないという実感もあった。だから、総選挙で議席を減らしても、自民党とそれほど大差にはならないと見込んでいた。選挙後、民主党は三党合意の一角として、引き続き意思決定に影響力を行使できるし、あわよくば政権継続もできると考えていただろう。しかし、野田首相の読みは甘かったと言わざるを得ない。野田首相は、総選挙後の政策を軸とした「政界再編」を考えていたが、自公の圧勝で、当面その実現は遠のいてしまった。
一方で、野田首相の「第三極」対策は、ほぼ完ぺきに成功した。第三極の中小政党は、政策調整を行って一体となって「消費増税反対」を訴えて戦うことができなかった。中小政党同士が票を食い合う展開となり、議席を伸ばすこともできなかった。特筆すべきは総選挙後、消費増税に反対する勢力がほとんど壊滅してしまったことだ。政治生命をかけた消費増税の実現という「政策」の観点から見れば、野田首相は衆院選で完勝と言えるのである。

曖昧な政策論争は、むしろ
政策中心の政治への移行プロセスである

今回の選挙では、主要政策について各政党の主張が曖昧で、活発な政策論争がなかった。第三極など中小政党のポピュリズム的政策も、国民の心に響くことはなかった。一方で、民主党は2009年総選挙のマニフェストが完全崩壊したために、今回は現実的な政策の提示に終始した。自民党も、TPPや原発など主要政策で曖昧な表現にとどめていた。

 更に、民主・自民・公明の三党合意によって、社会保障制度改革が国民会議を舞台に専門家によって議論されることになり、衆院選の争点から外された。これらは、民主党、自民党が過去の政策の「政治的敗北」から立ち直れず、自信を持って政策を訴えられないでいることを示している(第47回を参照のこと)。

 結果として、今回の衆院選では内容の濃い政策論争がなかったが、これは決して悲観的な状況ではないと考える。確かに、民主党政権の3年間は、さまざまな失敗の連続だった。だが、自民党長期政権下で政権を担当したことがなかった多くの政治家が、政府や与党の役職に就き、政策立案を経験したことには大きな意義がある。民主党政権で、のべ200人の議員が大臣・副大臣・政務官など政府の役職を経験し、マニフェストの目玉政策がことごとく財源問題に直面する現実を目の当たりにする一方で、財政赤字削減の困難や既得権の壁という現実を思い知ることになった。

 もちろん、民主党以上に政権担当経験が豊富な自民党は、より現実の厳しさを知っている。その結果が、控え気味の公約ではないだろうか。これは、政党の政策立案能力の後退ではなく、今後、「政策中心の政治」が深化していくための過渡期的状況なのだと考える(第47回を参照のこと)。

 そして、政権を担当することになる安倍自民党についてである。この連載では、野党・自民党の姿勢を厳しく批判し続けてきた(第35回を参照のこと)。衆院選で大勝しても、基本的に自民党の問題点は払拭されたとは思わない。ただ、安倍新首相がどんな政権運営を行い、どんな政策を実現するのかは、内閣改造・党役員人事を検証しないとわからない。安倍新内閣の評価は新年第一回目に詳細に行いたい。よいお年をお迎えください。

2012年12月21日金曜日

吉田茂以来の再登板自民党総裁 安倍晋三

「第2次安倍内閣」と森内閣
永田町アンプラグド
               
                                                2012/12/21 6:00
 吉田茂以来の再登板となる自民党総裁、安倍晋三が26日に発足させる「第2次安倍内閣」の人事が次々と伝わる。首相官邸は側近や身内で固め、内閣には党総裁経験者を複数、配した重量級を並べる――。選挙期間中から自民党大勝が予想され、準備期間は十分にあった。思い起こされるのは安倍自身が官房副長官として首相官邸にいた12年前の森喜朗内閣だ。
解散が決まる衆院本会議に臨んだ安倍総裁と新政権で重要な役割を担う麻生太郎元首相 (11月16日)
画像の拡大
解散が決まる衆院本会議に臨んだ安倍総裁と新政権で重要な役割を担う麻生太郎元首相 (11月16日)
 衆院選翌日の17日、安倍は幹事長、石破茂の続投を明言した。党内や安倍周辺には「衆院で大勝し、参院選も取り仕切らせたら力をつけすぎる」と、石破を重要閣僚として閣内で処遇し、幹事長には側近の菅義偉を充てる構想もあった。だが、安倍は早々に「石破留任」を決断して党内がぎくしゃくする芽をつんだ。「お友達内閣」などとやゆされて終わった5年前の第1次内閣は、党も内閣も自らに近い仲間で固めた。その失敗を振り返ってのことでもある。
 副総理・財務相に元首相の麻生太郎、重要閣僚に前総裁、谷垣禎一と2人の総裁経験者を配し、副総裁、高村正彦は留任させる。いま伝わる人事構想の特徴は総裁経験者、派閥会長クラスも総動員したオールスター政権だ。「長く政権党を務めた自民党の強み。ここが民主党と違う」と党幹部はいう。総合力、重量級をうたう人事は自民党政権が得意としてきたところだ。近い例では2000年12月の第2次森改造内閣があげられる。

 翌年に参院選を控えていた森は当時、すでに内閣にいた元首相、宮沢喜一と元総裁、河野洋平に加えて元首相、橋本龍太郎を口説いて内閣へ迎え入れた。足元の官邸は官房長官、福田康夫と副長官の安倍という、福田派以来の「森派主流」で固めた。3人の総裁経験者が首相を支える挙党態勢である。もう一人のスター、小泉純一郎は「政策では支えられないが、政局では森さんを支える」との奇妙な理屈で森派会長にとどまり、内閣にも党にも入らなかった。

 盤石だったはずの態勢は、さまざまな要因が絡み合ってわずか4カ月で崩れ、小泉が登場して自民党を救う。小泉は5年半にわたった政権で、高い支持率と自らのカリスマを背景にトップダウン型の人事を進め、重量級やオールスターといった考え方をついにとらず、安倍にバトンタッチした。どんな人事が奏功するのかは、時代背景と宰相のキャラクターによるところが大きい。

 森が挙党態勢を推進したのは、党を二分した「加藤の乱」を鎮圧した直後だったからだ。その当事者、元幹事長の加藤紘一は16日の衆院選で落選し、加藤と組んだ元副総裁、山崎拓も派閥会長の座を前幹事長、石原伸晃に譲った。加藤、山崎との「YKK」で最初に名を売り出した小泉はすでに政界を去り、森も衆院選で引退した。時代は流れる。

2012年12月20日木曜日

口の軽いコヤツ安倍 やはり問題総裁だ

安倍氏「日銀総裁から電話」 口の軽さにため息も

2012/12/20 16:15
自民党の安倍晋三総裁の発言が市場に波紋を広げている。日銀の白川方明総裁から20日朝に電話があったことを明らかにしたためだ。日銀が会合結果を公表したのは午後1時ごろ。安倍氏が日銀に対する緩和圧力を強めていた矢先だけに、日銀の政策委員会が議論する前に結果が決まっていたと受け止められる可能性があり、中央銀行の「独立性」に大きなキズがつきかねない。

 安倍氏はこの日午後の党本部の会合で、日銀が金融政策決定会合で追加金融緩和や物価上昇率目標の検討を決めたことを巡り「けさ日銀の白川方明総裁から電話で報告を受けた。我々が選挙で訴えてきたことが一つ一つ実現してきている」と述べた。言葉通りなら日銀が午後に追加緩和と物価目標の検討を決める予定だということについて事前に報告があったと受け止めることができる。

 市場には戸惑いの声が広がった。安倍氏は18日に白川総裁と会談し、2%の物価上昇率目標の設定を要請したばかり。「結局、安倍氏の圧力で金融政策が決まった」との印象が拭えない。「これまでも日銀から政府に対して事前に報告はあっただろうが、それを手柄のように公言するのは問題」(国内証券)。「日銀と水面下で交渉するのが政治家の腕の見せどころのはずだ」(国内銀行)と、市場関係者は次期首相と目される安倍氏の口の軽さにため息を漏らしていた。

 一部報道によると、日銀の広報担当者は白川総裁が安倍氏に電話したのは会合の決定内容を公表した後だったと説明したという。安倍氏が口を滑らせたのか、言い間違えたのかは今のところやぶの中。安倍氏の発言直後に外国為替市場で円相場が上昇し、債券先物が買い優勢になったことを考えると、キズがつくのは日銀ばかりではないようだ。
 

日銀総裁の電話「会合終了後」 安倍氏が訂正

2012/12/20 16:43

 自民党の安倍晋三総裁は20日午後、日銀の金融政策決定会合の結果に関する白川方明総裁の電話について「連絡を受けたのは午後だ。(会合が)終わってからだ」と訂正した。党本部で記者団の質問に答えた。
 安倍氏は同日の党の政調正副会長・部会長合同会議で「けさ白川総裁から電話で報告を受けた」と話していた。

2012年12月19日水曜日

信用不信用で物価目標2% 日銀の自民と民主への対応温度差

日銀 適切な物価目標設定など検討へ
12月21日 4時59分


日銀 適切な物価目標設定など検討へ
日銀は、自民党の安倍総裁が求めている2%の物価目標などについて、持続的な経済成長を伴う物価上昇を実現するにはどのような目標の設定が適切なのか、年明けの金融政策決定会合に向けて具体的な検討を進めることにしています。

日銀は20日まで金融政策決定会合を開き、自民党の安倍総裁がデフレからの脱却に向け、物価上昇率の目標を2%に設定する政策協定を政府と結ぶよう求めていることについて、来月の決定会合で議論し、結論を出すことになりました。
しかし、日本の物価上昇率はバブル期でも平均1%台前半で、足もとでは0%前後にとどまっています。
このため日銀内部からは、現在、目指すべき物価上昇率とする1%の倍に当たる2%の目標を設定した場合に国民生活に与える影響を見極めるべきという意見が出ています。
また、政府と物価目標についての政策協定を結んだ場合、協定に縛られ、景気や金融市場の動向に沿うべき金融政策を柔軟に打ち出しにくくなるのではないかといった懸念も出ています。
このため日銀では、持続的な経済成長を伴う物価上昇を実現していくために懸念材料を詳しく検討したうえで、目標の幅や達成の時期など、どのような目標の設定の仕方が適切なのか、来月の会合に向け具体的な検討を進めることにしています。

前原氏日銀2%言及に不快感
12月21日 13時47分


前原氏日銀2%言及に不快感
前原経済財政担当大臣は閣議のあとの記者会見で、日銀が2%の物価目標などについて検討を進めることに対し「これまで1%にも慎重だった日銀が、メンバーが全く変わっていないのに2%に言及したことに驚きを感じている」などと述べ、不快感を示しました。

日銀は20日まで開いた金融政策決定会合で、自民党の安倍総裁の要請を踏まえて、2%の物価上昇率の目標などについて、来月の会合で議論することを決めました。
これについて、前原経済財政担当大臣は記者会見で、「私はこれまで3回、日銀の決定会合に出席したが、『当面1%をメド』としている物価安定の目標についてかなり議論があった。私は本気で1%を目指しているのかという思いを持っていたが、決定会合のメンバーが全く変わっていないのに、2%に言及したことに驚きを感じている」と述べ、不快感を示しました。
そのうえで前原大臣は「今まで1%へのアプローチにも慎重だった日銀執行部が、1%も達成できていないデフレのなかで2%に言及するのは、いままでとの整合性があるのか。私たちは野党になるが、今後、国会で厳しくチェックしていく」と述べました。

2012年12月18日火曜日

小選挙区は民意を反映できない 日本の弊害だ

選挙制度に負けた「分裂・民主」と「乱立・第三極」

                                                               日経新聞       2012/12/18 7:00

 衆院選の隠れた本質ははっきりした特徴を持つ選挙制度と、無手勝流の政党や政治家たちのせめぎ合いだった。定数1の小選挙区主体で二者択一型の政権選択ゲーム。そこで逆風下の民主党の分裂や第三極の乱立は合理的な動きとは言いづらかった。戦後最低の投票率で組織票の重みも増し、制度が秘める人為的な多数派形成力が自民党の議席数を一気に押し上げた。

自民に勝者の弁無し

 「今回は熱気を全く感じなかった。民主党政権の3年3カ月に皆がダメ出しをした。自民党には敵失で票が入ったので、いい気になっている者はいない。我々は最初から小選挙区の戦いに全力を挙げた。比例代表は12も13も政党の選択肢が増えれば、票がバラけるのは当然だ」

 自民党大勝にも、2009年の前回衆院選で政権を失った元首相の麻生太郎の分析に勝者の弁はない。青年局長の小泉進次郎も「そよ風も感じない無風だった。民主党がひどすぎ、新党が新党に見えなかっただけ。有権者が自民党を評価した結果ではない」と自戒する点は共通する。

 衆院選は過半数を得た勢力が首相を選び、政権を獲得するゲームだ。当選者が1人で、地滑り的に多数派を創り出しやすい300小選挙区が主体。政党名で投票し、得票率に応じて議席を配分する定数180の比例代表で補う。選挙協力も含め、過半数を目指して全国の小選挙区に候補者を立てる政党・勢力が政権を競う。主に比例で議席を狙う中小政党は政権選択のらち外に置かれざるを得ない。

 フランスの政治学者が唱えた「デュべルジェの法則」によれば、小選挙区制は二大政党制、比例代表は多党化をもたらす。1996年に衆院選が今の仕組みになると、万年与党の自民党に小選挙区で対抗するため野党再編が進み、民主党が台頭。300選挙区の大半で両党が対決し、有権者がどちらかに4年任期を託す政権選択選挙の外形が整った。中小政党も法則通りに比例で生き残っている。

「不都合な新党」分かっていた小沢氏

 政党を選ぶ基準は体系的な政策マニフェスト(政権公約)、首相候補となる党首の個性と政権枠組みの選択肢だ。自民党は公明党と小選挙区で候補者の競合を避けて綿密な選挙協力をし、連立を組む方針も明示した。民主党も連立パートナーだった国民新党との協力を継続した。

 この選挙制度というゲームのルールに敗北した第1のプレーヤーは民主党だ。消費増税法案に反対した小沢一郎グループが集団脱党し、その後も離党者が相次いだ。自公が着々と選挙準備を整えたのに、これと対峙すべき民主党の分裂。政権与党にもかかわらず、党内抗争が臨界点を超えた結果で、世論の逆風をますます強めただけだった。

 小沢は小選挙区制導入の旗を振り、二大政党制論者だった。政界再編の曲折を経て行き着き、政権交代も果たした民主党を離れ、新党を構える――選挙制度の力学から、この行動が理にかなっていないことは知り抜く。それでも党内政局で追い込まれ、飛び出さざるを得なかったのは誤算だった。代表に嘉田由紀子を担いだ日本未来の党は「小沢新党」と受け止められがちだ。中小政党結集を狙った「日本版オリーブの木」構想も空振りだった

 民主党の分裂後遺症も深かった。どうにか過半数の264小選挙区で候補者を立てたが、空白区続出で二大政党の看板が傾いた。首相の野田佳彦は自民党総裁の安倍晋三との「首相候補の対決」に活路を探ったが、逆風で衆院選の目標を「比較第1党になることが何より大事だ」としか言えなかった。過半数を目指すべき政権枠組みも国民新党との連携だけでは怪しかった。
 ゲームのルールの第2の敗者は第三極だ。日本維新の会、みんなの党、未来のどこも過半数の候補者を立てられなかった。石原慎太郎は太陽の党を結党してすぐ「小異を捨てて大同団結すべきだ」と維新に合流。小選挙区ではまとまらないと大政党に勝てないという危機感が突き動かしたが、そこまでだった。

 当初は過半数擁立を掲げた維新代表代行の橋下徹も「選挙前に新政権の枠組みなど示せるわけがない」と転換した。目指す政権枠組みや過半数獲得の道筋、首相候補をどの党も示せず、選挙後は野党貫徹か与党志向かも曖昧なままだった。小選挙区主体で有権者が直接、政権を選ぶゲームのルールを脇に置いた。互いに候補者を立てて競合した選挙区は86に上った。「第三極」という政権の選択肢は存在しなかった。

「自民党が漁夫の利」と岡田氏

 自公協力を横目に、民主党と第三極各党がつぶし合った選挙区は206。副総理の岡田克也は「反自民票が分裂し、自民党が漁夫の利を得ている」とうめいた。維新の橋下も前半は「卒原発」を掲げた未来を徹底攻撃。後半は自民党批判に急転したが、手遅れだった。二大政党陣営のどちらにも過半数を取らせない「消極的選択」を有権者に訴える戦略は、比例では躍進をもたらしたが、政権を争う小選挙区では限界を露呈した。

 「自民党は『国家をどうするか』から話を始めるが、民主党は『社会を強くすることを通じて国も強くする』と訴えた。ただ、これだけ厳しい選挙結果になったのは、民主党が何のために存在しているのか、党のあり方そのものが問われている」

 民主党で新代表候補にも挙がる政調会長の細野豪志はなお自民党との対立軸を語る。二大政党の一角の自負は捨てないが、惨敗で党再建は暗中模索だ。第3党になった維新は代表の石原と橋下の路線や政策のズレが目立つ。橋下は「みんなの党や民主党の一部の考え方が合う人たちと政権政党に対抗できるグループをつくりたい」と新たな野党再編の意欲も口にし始めた。選挙制度を変えない限り、野党に再編の力学が働くのは確かだ。

 「政治的な選択というものは必ずしも一番よいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉の言っている言葉ですが『悪さ加減の選択』なのです」(丸山真男「政治的判断」1958年)

 「勝者なき衆院選」が終わり、自公連立政権が復活する。この政権選択ゲームを今後も続けるか否か。残る衆参ねじれをどう乗り越えるかも合わせ、敗者たちがカギを握っている。


2012年12月14日金曜日

全く緊張感なぃ国営NHKの10日もの日日間違ぃ

中国船5隻 尖閣沖の接続水域に

                                                        12月14日 13時3分
中国船5隻 尖閣沖の接続水域に
沖縄県の尖閣諸島の沖合では、中国の海洋監視船4隻と漁業監視船1隻の合わせて5隻が、日本の領海のすぐ外側にある接続水域で航行を続けていて、海上保安本部が警告と監視を続けています。

第11管区海上保安本部によりますと、14日午前9時半現在、尖閣諸島の久場島の北の日本の接続水域で、中国の海洋監視船4隻と漁業監視船1隻の合わせて5隻が航行しているということです。
このうち、海洋監視船は4隻のうち1隻が一時、接続水域を出ましたが、再び入り、4隻で縦に列を作って接続水域を航行しているということです。
接続水域で確認された海洋監視船の4隻は13日、およそ6時間にわたって日本の領海に侵入しています。
また、漁業監視船1隻は13日、接続水域を航行したあと、いったん水域を出ましたが、24日午前9時半前に再び接続水域に入り、航行しているということです。
海上保安本部は、5隻に対し領海に近づかないよう警告するとともに、監視を続けています。
尖閣諸島の上空では13日、中国当局の航空機が領空を侵犯したのが、統計を取りはじめて以降、初めて確認されています。

2012年12月13日木曜日

領空侵犯 中国活動一段と活発に

中国の飛行機が、13日、初めて日本の領空を侵犯しました。
侵犯したのは尖閣諸島の上空で、自衛隊のレーダーはこの動きをキャッチすることができませんでした。
中国機による領空侵犯の背景には何があるのか、そして、日本はどう対応していくべきなのか、社会部防衛担当の仲井道(とおる)記者と中国総局の北川薫記者が検証します。

尖閣諸島で何があったのか


ニュース画像

領空侵犯は、13日の午前11時すぎ、尖閣諸島の魚釣島の南、およそ15キロの上空で起きました。
尖閣諸島周辺に海洋監視船を出している中国の国家海洋局所属のプロペラ機1機が日本の領空に侵入し、日本側の呼びかけに対し、「ここは中国の領空である」と答えたということです。
機体には、海洋監視船と同じ、「中国海監」という文字が書かれていました。

ニュース画像

発見したのは…海上保安庁


航空自衛隊は、沖縄県の那覇基地から、F15戦闘機をスクランブル=緊急発進させました。
航空自衛隊は、全国28か所のレーダーサイトで日本周辺の空を24時間監視し、外国機が接近してくれば緊急発進させる態勢をとっています。
ところが今回、中国機の存在に最初に気づいたのは、自衛隊ではなく海上保安庁でした。
尖閣諸島で任務についている海上保安庁の巡視船が発見し、防衛省に連絡。
自衛隊は、海上保安庁からの連絡で初めて気づきました。

ニュース画像

なぜキャッチできなかった


なぜ、自衛隊は、中国機を発見できなかったのか。
レーダーは、遠くまで見通すことができますが、弱点は、低空で飛行している航空機を捉えにくいことです。
地球は丸いため、遠く離れた空域では、相手機が水平線の下に隠れて探知できなくなってしまうからです。
しかも、相手機が小さな場合、レーダーの反射も小さくなり、より探知しにくくなるといいます。
今回、侵犯した中国機は、小型のプロペラ機でした。

ニュース画像

中国の活動は海から空へ


尖閣諸島の周辺では、日本政府が島を国有化した今年9月以降、中国当局による船の派遣が常態化していますが、空での活動も活発になっていました。
防衛省によりますと、中国機に対する緊急発進は、この5年では、平成20年度が31回、21年度が38回だったのに、22年度になると96回、さらに昨年度は156回と、この1、2年で急増しています。
今年度は、当初、減少傾向だったものの、尖閣諸島を巡り日中関係が悪化した7月以降、急増していて、国籍別に統計をとり始めた平成13年度以降、最多となった昨年度のペースに近づきつつあります。

ニュース画像

そして今回、中国が初めての領空侵犯に踏み切りました。
航空自衛隊で航空支援集団司令官を務めた元空将の永岩俊道さんは、「中国は長年にわたって徐々に行動範囲を広げてきたが、今回は意図的な領空侵犯で、日本の領空を自分たちの領空と主張している。尖閣諸島への関わり方のステージを一段あげる狙いがあったのではないか」と分析しています。

ニュース画像

監視態勢の再検討に着手


防衛省は、尖閣諸島を含む東シナ海での監視態勢の再検討に着手しています。
尖閣諸島は、航空自衛隊のレーダーサイトがある沖縄県宮古島から200キロ、久米島から300キロ、沖縄本島からも400キロ離れ、どのレーダーからも遠く、いわばエアポケットのようになっています。
そうしたなか、レーダーで領空侵犯をキャッチできないという今回の事態が起きました。
航空自衛隊トップの片岡晴彦航空幕僚長は14日の会見で、「今回のケースを受けて、航空自衛隊として、南西諸島周辺の防空にどのような態勢が必要か検討を進めていきたい」と述べました。

ニュース画像

ただ、尖閣諸島周辺で、自衛隊の活動がより前面に出ることになれば、中国が軍事的な活動を強めるきっかけになる可能性もあり、事態をエスカレートさせず、しかも警戒監視を万全なものにするという難しい対応が求められています。

中国は「完全正常」と強調


「中国固有の領土の周辺を中国の航空機が飛行することは『完全正常』(当然の行動)だ」。
領空侵犯をした当日の13日、中国外務省の洪磊(こう・らい)報道官は、定例記者会見でこのように述べ、尖閣諸島上空の飛行は何の問題もないという中国の立場を繰り返し強調しました。

ニュース画像

また、翌14日の中国各紙は、「中国本土の航空機が初めて『釣魚島(尖閣諸島)』の領空を飛行した」と大きく伝え、9月11日の日本政府による国有化からの経緯をまとめた表を掲載した新聞もありました。
中国の専門家は、「中国が主導権を握るためには、海と空から立体的なパトロールの態勢を作っていくことが必要だ」と話しており、今後もこうした形で領空侵犯が行われる可能性を示唆しています。

なぜこのタイミング、背景には何が?


ニュース画像

領空侵犯した航空機は、中国政府の国家海洋局の所属です。
海洋監視や海洋資源の調査などを行う部門で、航空機には島の形状を計測する設備などが搭載されているということです。
ただ今回の領空侵犯は、国家海洋局単独の判断で行われたとは、考えにくいのが実情で、中国は、海洋監視を名目に、内部で周到な準備をしたうえで、領空侵犯した可能性があります。
領空侵犯が、16日の日本の衆議院選挙の直前だったことも偶然ではないと思います。
中国は今、衆議院選挙の行方に注目しており、連日、メディアが伝えています。
そのほとんどは、日本が今後「右傾化」するのではないかという警戒論で、領空侵犯の背景には、日本に対するけん制の意味もあったとみられます。

中国が目指す「海洋強国」との関係は?


ニュース画像

中国は、今、「海洋強国」を目指しています。
11月の共産党大会でこの方針を打ち出しました。
海洋権益を守りながら、海洋資源の開発を進め、中国の経済発展を支えていこうというもので、この方針を受けて、習近平体制がスタートしました。
習近平氏は、12月8日と10日に、中国南部の広東省で海軍を視察し、最新式のミサイル駆逐艦に乗り込んだり、実弾演習を見学したりして、軍事力の強化に力を入れていく考えを示しています。

これからの動き


中国は今後どう出てくるのか?言えるのは、日中両国の首脳どうしの対話が行われない現状では、すぐに事態打開へと向かうことは考えにくいということです。
中国は、尖閣諸島のほかにもフィリピンやベトナムとの間で南シナ海の島々を巡って対立していて、海洋権益を守るために長期的な戦略を立てていこうとする動きも着々と進めています。
12月には、北京に政府系のシンクタンクや大学が共同で、海洋権益を守るための政策を立案する研究センターが設立されました。

ニュース画像

発足したばかりの習近平指導部が求心力を強める狙いもあるとみられ、尖閣諸島周辺での中国側の動きは今後、さらに活発化するとみられます。