2012年12月30日日曜日

1968年、学生はなぜ怒り狂ったのか 池上彰の教養講座

1968年、学生はなぜ怒り狂ったのか
現代日本を知るために(12)東工大講義録から


                                                  2012/12/31 3:30
 
 1968年(昭和43年)は、先進各国で学生の反乱が起きました。フランス・パリではパリ大学の学生たちの反乱「五月革命」が起き、パリの学生街カルチェ・ラタンは学生で埋め尽くされました。

 同時期、米国・ニューヨークのコロンビア大学では、ベトナム戦争に反対する学生たちが大学を占拠します。この事件は、映画『いちご白書』のモデルになりました。

 こうした行動は全米各地に拡大し、鎮圧に出動した州兵の発砲で学生が死亡する事件も起きました。

 なぜ世界同時の学生反乱が起きたのか。ベトナム戦争への嫌悪感が背景にあったとはいえ、解明しきれていない現象です。

 日本では、東京大学と日本大学で始まりました。




世界でベトナム戦争に反対する運動が広がった(この戦争は1973年のパリ和平協定調印に基づき米軍が撤退した後、1975年の南ベトナム・サイゴンの陥落で終結した)=AP
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世界でベトナム戦争に反対する運動が広がった(この戦争は1973年のパリ和平協定調印に基づき米軍が撤退した後、1975年の南ベトナム・サイゴンの陥落で終結した)=AP



日本の始まりは東大医学部

 1968年1月、東大医学部の学生自治会が、医学部学生のインターン制度(無給の研修制度)の改革を要求し、医学部の教授を長時間拘束する事件が起きます。大学は、事件に関わった学生17人を退学や停学処分にします。

 ところが、当時現場にいなかった学生までが処分されたのです。冤罪(えんざい)でしたが、医学部教授会は非を認めませんでした。

 怒った学生は6月15日、東大のシンボルである安田講堂を占拠します。驚いた大学は、警察の出動を要請。学生は講堂から逃げ出しますが、これをきっかけに、医学部の闘争は全学規模に拡大しました。



東大安田講堂は全国の学生運動のシンボルになった(立てこもりの舞台となった東京・本郷の東大安田講堂。1969年1月18日)=共同
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東大安田講堂は全国の学生運動のシンボルになった(立てこもりの舞台となった東京・本郷の東大安田講堂。1969年1月18日)=共同

 大学院生を中心に全学闘争連合が結成され、7月、安田講堂を再び占拠します。翌年1月に機動隊によって封鎖が解除されるまで、学生たちが籠城。安田講堂は、学生運動のシンボルになります。

 安田講堂の中では、大学院生ばかりでなく学部の学生も含めて4000人が集まり、「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成されました。当時、大学院博士課程に在学していた山本義隆が議長に就任します。

 また、全学部の学生自治会は無期限ストに入りました。

 医学部の学生の問題が、なぜ全学規模の問題に発展したのか。当時の大学は、「学問の府」として、何物にも干渉されない聖域という意識が学生の間に強かったのです。警察が導入されるなど、当時の学生たちにはあってはならない出来事だったのです。いまでは考えられない意識ですが、これが当時の空気というものでした。

 一方、日本大学でも学生の怒りが爆発します。1968年(昭和43年)4月、東京国税局が、日大で使途不明金、約20億円を指摘したとの新聞報道が出ました。使途不明金は、最終的にはさらに膨れ上がります。これとは別に、理工学部教授が裏口入学で得た5000万円の脱税も明るみに出ました。



 これに怒った学生たち5000人が、5月、東京・神田の日大経済学部の建物周辺を埋め、全学総決起集会を開きます。この場で日大全共闘が結成されました。議長には経済学部学生会(自治会)の秋田明大(あけひろ)が就任します。

 学生たちは大学に対して団体交渉を要求しますが、大学側はこれを拒否。6月に学生たちが抗議集会を開くと、これを体育会系学生が襲撃します。全共闘の学生200人が負傷する事態となりました。

機動隊と衝突

 これをきっかけに、各学部の校舎を学生が封鎖。これは「バリケード封鎖」と呼ばれました。

 当時の日大は、体育会の学生たちが大学当局の命を受けて学生たちを監視し、自治会運動をする学生に対しては暴力を振るっていました。学内に言論の自由はなかったのです。

 その一方で、学費は全国一高く、学生数は定員を大きく上回っていました。たとえば芸術学部は定員450人に対して入学者は1500人。各学科の800人の学生に対して専任教員は2~3人というありさまでした。

 東大は機動隊導入という「学問の独立侵害への抗議」であり、日大は「金儲(もう)け主義への抗議」でした。

 大学は、東京地裁に封鎖解除の仮処分の申請をし、9月4日には機動隊が日大の封鎖を解除します。この際、校舎の中に立てこもっていた学生たちは投石。直撃を受けた機動隊員1人が死亡しました。



日大でも学生と大学側との対立が激しくなった(日大紛争で校舎入口で放水のホースを奪い合う学生たち。1968年)
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日大でも学生と大学側との対立が激しくなった(日大紛争で校舎入口で放水のホースを奪い合う学生たち。1968年)

 9月30日には、全共闘の要求に応えて、両国講堂で全学集会が開かれました。学生はこれを「大衆団交」と呼びました。実に3万5000人もの学生が集結し、古田重二良会頭以下理事に退陣を迫りました。この大衆団交は12時間も続き、結局、日大理事会は経理の公開や全理事の退陣を承認します。

 ところが翌日、古田会頭と親しかった佐藤栄作首相が「集団暴力は許せない」と発言。大学は学生との約束を反故(ほご)にします。

 こうして日大闘争は長期化。11月には東大・安田講堂前で「東大・日大闘争全国学生総決起集会」が開かれ、日大全共闘の学生が東大全共闘に合流しました。

 それまでの各大学には、学生全員が加盟する学生自治会があり、その全国組織が「全学連」(全日本学生自治会総連合)でした。全学連は、特に1960年(昭和35年)の安保闘争でその名をとどろかせ、「ゼンガクレン」はそのまま海外で通じる言葉になったほどです。

 しかし、全学連や学生自治会は学生が全員参加。意思の統一や行動には時間がかかります。そこで、「戦う者」が自由に参加できる全共闘組織が各大学に誕生します。こうした全共闘が中心になって、各大学で、それぞれの闘争課題をめぐって、次々にストライキに入ります。

全共闘の結成

 これに危機感を抱いた政府は、大学の管理を強化する法案を作成しました。通称「大学管理法案」です。これに反対する学生たちが、全国でストに入りました。政府の対応が、かえって学生たちの怒りに火をつけてしまったのです。

運動は当初、学生たちの支持を集めていた(東大の加藤学長が全学生との討論会中止を告げた後、リーダーで東大全共闘の山本義隆代表<中央右>が集会でアジ演説を始めた。1969年5月19日、安田講堂正面玄関)
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運動は当初、学生たちの支持を集めていた(東大の加藤学長が全学生との討論会中止を告げた後、リーダーで東大全共闘の山本義隆代表<中央右>が集会でアジ演説を始めた。1969年5月19日、安田講堂正面玄関)



 1969年(昭和44年)にはおよそ全国165の大学がストに入ったほどです。9月には全国全共闘連合が結成され、東大の山本義隆が議長、日大の秋田明大が副議長を務めました。



 この東京工業大学でも、学生たちが机や椅子でバリケードを築き、無期限ストに入ったのです。1969年(昭和44年)2月のことでした。

 きっかけは、大学が学生寮の規則を改正しようとしたことです(笑)。

 みんな笑ったね。学生寮の規則改正なら、学生寮に入っている学生たちが大学と交渉すればいい話だね。何も全学がストに入る必要はないと思うけど、当時は、ごくささいなことでも学生たちが怒っていたんだね。なぜあんなに皆が怒っていたのか。いまとなっては追体験できないけれど、それが、あの時代の空気だったんだ。

 東大や日大は全共闘という名称だったけど、東工大は全学闘争委員会という名前でした。当時の東工大には濃縮ウランやプルトニウムが保管されていて、学生たちがストに入ったことで、その管理が心配だと当時の新聞は報じています。

 結局、この年の7月、大学の要請で機動隊が出動。バリケード封鎖は解除されました。

 その後、全学闘争委員会のやり方に疑問や反感を持つ学生たちが「大学改革推進会議」を結成し、スト解除に動きます。そのリーダーが、やがて日本の首相になる菅直人でした。

 当時は米国がベトナム戦争の泥沼にはまっていました。多数の悲劇が報じられ、日本をはじめ世界各地でベトナム反戦運動が盛り上がっていました。この中に学生たちの反乱もあったのです。

 成田空港建設計画も持ち上がり、土地を失う農民たちが反対運動を開始すると、学生たちが農民支援に駆け付けます。



学生たちは米原子力空母の入港に反対した(佐世保に入港する米原子力空母エンタープライズ。1968年1月19日)=共同
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学生たちは米原子力空母の入港に反対した(佐世保に入港する米原子力空母エンタープライズ。1968年1月19日)=共同

 1968年(昭和43年)には米空母「エンタープライズ」が長崎県の佐世保に入港し、これに抗議する学生たちが機動隊と衝突しました。

 東京・新宿駅西口地下広場では週末になると学生や市民が集まって反戦歌を歌う「新宿フォークゲリラ」が社会現象になりました。

 こうした中で、東大では1969年(昭和44年)1月、大学の要請で機動隊が入り、安田講堂に籠城した学生たちと攻防戦を繰り広げます。

 一方、東京教育大学も筑波への移転に反対する学生が無期限ストに入り、両大学とも入試中止に追い込まれました。東京教育大学は、結局、茨城県の筑波に移転し、現在の筑波大学になります。



過激化した運動

 こうした学生運動の中心を担ったのは、特定の党派に属さない学生たちでした。これを「ノンセクト」と呼びました。

 しかし、学生運動を通じて、共産党とは別の共産主義の道を模索する過激な党派の勢力が拡大します。そうした党派は、他の党派との対抗上、より強硬で過激な戦術をとるようになり、みるみる過激になっていきました。

 中でも、共産同(共産主義者同盟)という組織は、1960年(昭和35年)の安保闘争で勢力を拡大した組織でしたが、闘争方針をめぐって分裂します。そこから生まれたのが、共産同赤軍派でした。





 赤軍派は、直ちに世界同時革命のために立ち上がるべきだと主張、そのために日本で武力革命を起こす準備を始めます。主力部隊は、山梨県の大菩薩峠で軍事訓練をしていたところを警察に見つかって逮捕され、組織は壊滅状態になります。

 残されたメンバーは、別の形で世界同時革命を模索。北朝鮮に渡って、軍事訓練を受け、武器を持って日本に帰還しようと考えます。北朝鮮がどんな国か、ろくに知りもしないままでした。

 1970年(昭和45年)3月、赤軍派の9人が日本航空機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮へ向かいました。当時の日航機には、それぞれ名前がついていたのです。

赤軍派が「よど号」を乗っ取り北朝鮮に向かった(ハイジャックされた「よど号」から解放された乗客。1970年4月3日、韓国・金浦空港)=共同
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赤軍派が「よど号」を乗っ取り北朝鮮に向かった(ハイジャックされた「よど号」から解放された乗客。1970年4月3日、韓国・金浦空港)=共同



 この事件をきっかけにハイジャック防止法が制定されました。

 彼らは犯行の前日、「我々は“明日(あした)のジョー”である」という宣言をまとめていました。当時人気だった漫画のタイトルでした。

 しかし、彼らはそのまま北朝鮮に留まることになり、いまも帰国していません。

 赤軍派の9人が北朝鮮に渡った後、残されたメンバーは、「世界同時革命」の拠点として中東のパレスチナを選びます。1972年(昭和47年)5月、3人の日本人がイスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射。24人を殺害する虐殺事件を引き起こしました。パレスチナに渡ったメンバーは、「日本から来た赤軍派」という意味の「日本赤軍」と呼ばれるようになります。

 さらに残された赤軍派は、京浜安保共闘という組織と合同して連合赤軍を結成します。彼らは群馬県の妙義山中で軍事訓練をしていましたが、警察に見つかって逃走。1972年(昭和47年)2月、山を越えて長野県の軽井沢に入り、保養所「あさま山荘」に5人が逃げ込んで、管理人の妻を人質に、包囲した警察の部隊と10日間の攻防戦を繰り広げました。

 事件解決後、彼らは妙義山中にいる間に仲間をリンチして殺害していたことが判明します。被疑者は14人にも上りました。

 この事件が日本社会に与えた衝撃は大きく、これ以降、日本の学生運動は低迷します。



内ゲバで学生運動自壊

 学生たちが学生運動から離れるきっかけは、他にもありました。共産同とは別の過激派組織である革共同(革命的共産主義者同盟)が中核派と革マル派に分裂して激しく対立。互いに相手を襲撃して、多数の死者を出すようになったのです。これは「内ゲバ」(内部ゲバルト=ゲバルトとはドイツ語で暴力のこと)と呼ばれました。

 1980年(昭和55年)10月には、ここ東工大から近い大田区南千束の洗足池図書館前で、革マル派活動家5人が中核派の襲撃を受け、全員殺害されました。

 このとき私はNHK社会部記者で警視庁詰めの事件記者。現場を取材しましたが、凄惨極まる事件でした。被害者のうち1人は元東工大生で、1人は現役の東工大生でした。

 中核派と革マル派以外の党派による内ゲバもあり、1970年(昭和45年)から1982年(昭和57年)までに死者計113人、負傷者約4600人に上りました。こうなると、多くの学生たちは一斉に学生運動から手を引きます。1968年(昭和43年)から始まった学生の反乱は終息したのです。





 では、どうしてこのような学生の反乱が起きたのでしょうか。

内ゲバは一般の人々の暮らしの中でも繰り広げられた(中核派と革マル派の内ゲバで新橋ホームに散乱するヘルメットや鉄パイプ。1975年7月17日、東京・新橋)
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内ゲバは一般の人々の暮らしの中でも繰り広げられた(中核派と革マル派の内ゲバで新橋ホームに散乱するヘルメットや鉄パイプ。1975年7月17日、東京・新橋)



 1965年(昭和40年)の高校進学率は70.7%、大学進学率(短期大学含む)は17%でした。それが1970年(昭和45年)には大学進学率が23.6%にまで増えます。

 大学が大衆化することで、マンモス教育の貧弱さに怒る学生が生まれます。

 その一方で、大学生は、まだまだエリート。世の中の矛盾に目が向き、なんとか現状を改革したいという正義感を抱くようになります。

 しかし、その多くは、ひとりよがりの行動でした。これが、さまざまな反乱を引き起こしたのです。

 また、ベトナム戦争の負傷者が日本に運び込まれて治療を受けるなど、身近なところに戦争の脅威を感じる時代でした。これが、若者たちを反戦運動に駆り立てました。

 しかし、いまになってみると、なぜあんなことが起きたのか、理由がつかめません。1968年(昭和43年)前後に世界で同時的に発生した学生の反乱。その分析は、現代史のひとつの課題でもあるのです。
 
 

 
 


1 件のコメント:

  1. ソビエト・中国・北朝鮮の工作活動の結果だろ。

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