丸の内に東京駅が開業したのは大正3(1914)年のこと。日本初の鉄道駅、新橋は明治5年に開業し、上野、新宿、渋谷といった主要ステーションもすべて明治期に完成している。実は、東京駅は最も遅い開業だったのである。
市街地を避けるように(実際には市街地に阻まれていたのだが)分断されていた鉄道を結び、都市内交通を活性化しようと、明治17(1884)年に、中央停車場(東京駅)の建設計画が浮上する。
着工は明治41年。6年後の大正3年12月に、総坪数3184坪、正面長334.5mの巨大な駅舎が完成。開業直前に、「中央停車場」から「東京駅」と名称が改められた
建設予定地となった丸の内は、明治維新後は陸軍の練兵場として使用され、その後は司法関係の施設が立ち並んでいた。一方、明治政府は皇居東側の広大な敷地を岩崎彌太郎に払い下げ、三菱による都市開発が始動する。中央停車場建設と三菱への払い下げは、丸の内が将来東京の中心地になることを見越しての政府の決断だった。
コンドルの愛弟子
辰野金吾
1854~1919年。佐賀県生まれ。政府関連の建物を設計したジョサイア・コンドルの愛弟子。辰野が東大工学部に入学した後、教鞭を執ったのがコンドルだった。赤い煉瓦は辰野建築の特徴。日本の“煉瓦積造”を確立した建築家として評価されている。国立国会図書館蔵
建設予定地となった丸の内は、明治維新後は陸軍の練兵場として使用され、その後は司法関係の施設が立ち並んでいた。一方、明治政府は皇居東側の広大な敷地を岩崎彌太郎に払い下げ、三菱による都市開発が始動する。中央停車場建設と三菱への払い下げは、丸の内が将来東京の中心地になることを見越しての政府の決断だった。
それにしても、完成するまでにかかった年月は長い。これには日露戦争が関係している。明治33年に市街高架線工事は着工されたが、地盤の問題もあって難航。そのうちに日露戦争が勃発し、工事中断を余儀なくされたのだ。
1854~1919年。佐賀県生まれ。政府関連の建物を設計したジョサイア・コンドルの愛弟子。辰野が東大工学部に入学した後、教鞭を執ったのがコンドルだった。赤い煉瓦は辰野建築の特徴。日本の“煉瓦積造”を確立した建築家として評価されている。国立国会図書館蔵
その間、設計担当者の交代劇もあった。中央停車場の設計は、西洋建築の第一人者である辰野金吾だといわれているが、当初はドイツ人建築家、バルツァーの手でプランニングが行われていた。ところが、その案に不満だった鉄道作業局長官の平井晴二郎(後の鉄道院副総裁)が、設計を辰野に依頼。辰野はバルツァー案を継承しつつ、「建物を連続させ、壮観を呈するものに」という平井の注文に応じ、3案を作成した。
実は最終案の3階建て駅舎は、予定より数段、規模が大きいものだった。日露戦争の勝利により予算が増額され、国威を示すことが重要視されたためである。日露戦争が駅舎の規模にまで影響を及ぼしたことになる。
国家の威信を懸けて建設された東京駅は、その後、丸の内をビジネスの中心街へと育ててゆく。そして、第2、第3の丸の内の発展に貢献していくのである。
■辰野金吾が情熱を注いだ大正の東京駅がよみがえった
ドーム内部は日本趣味で
南北のドーム3・4階と天井の内観を復原した。「装飾は日本趣味でやるように」との言葉を残した辰野は、レリーフに干支、鷲、兜、剣、花飾りといった日本的なモチーフを使用。
新装なった東京駅の構造。オレンジ色部分が復原部(3階・屋根)、水色部分が保存部(1・2階)、緑色は新設部(地下1・2階)
では、駆け足で復原工事を見ていこう。まずは3階の外壁部分。復原には、1・2階の外壁に使われている化粧煉瓦の再現が不可欠だった。現代では製造されていない煉瓦が使われていたからだ。「技術を知る職人さんもいないので、煉瓦を作る技術を磨いてもらう必要があった」と、本橋さんは振り返る。しかも保存部分の煉瓦は経年で変色している。何度も焼き直し、創建当時の煉瓦に近づけた。
また、屋根は天然スレート、銅板で仕上げて復原した。「南北にあるドームはもちろん、小さな塔状の屋根や窓も復原しました。銅板部分の輝きは議論されましたが、経年で緑色に変色していくものなので、人工的処理はあえて避けました」(本橋さん)。
干支は12支のうち、方角を示す8支が描かれている
色は文献にあった記述やモノクロ写真を検証し、決定したという
■辰野金吾が情熱を注いだ大正の東京駅がよみがえった
南北のドーム3・4階と天井の内観を復原した。「装飾は日本趣味でやるように」との言葉を残した辰野は、レリーフに干支、鷲、兜、剣、花飾りといった日本的なモチーフを使用。
2007年に着工した東京駅丸の内駅舎保存・修復工事がついに終了、創建当時の荘厳なたたずまいを見せている。
大正3年に開業した東京駅は、関東大震災には耐えたものの、第2次世界大戦で屋根と3階部分を焼失。復興工事により、南北のドーム部は八角形の屋根へと姿を変え、3階建ての駅舎は2階建ての駅舎として完成する。これまで目にしてきたのは、そのときに建て替えられた駅舎である。その後、創建時の姿に戻す計画は幾度となく議論され、21世紀を前にして計画が具体化。東京駅周辺の再整備が検討されるなか、文化的遺産である東京駅丸の内駅舎の保存や『復原』が決まったという。
「工事の目的は、駅舎を解体して建て直すのではなく、1・2階の外壁など主要部分は保存し、焼失した部分を復原することでした。そのため、あえて保存と復原という2つの言葉を使ったのです」と、JR東日本建設工事部の本橋元二郎さんは説明する。新装なった東京駅の構造。オレンジ色部分が復原部(3階・屋根)、水色部分が保存部(1・2階)、緑色は新設部(地下1・2階)
では、駆け足で復原工事を見ていこう。まずは3階の外壁部分。復原には、1・2階の外壁に使われている化粧煉瓦の再現が不可欠だった。現代では製造されていない煉瓦が使われていたからだ。「技術を知る職人さんもいないので、煉瓦を作る技術を磨いてもらう必要があった」と、本橋さんは振り返る。しかも保存部分の煉瓦は経年で変色している。何度も焼き直し、創建当時の煉瓦に近づけた。
復原したのは外観だけではない。ここで旧舎を思い出してほしい。南北のコンコースにあった球形の天井を覚えているだろうか。「実はあの天井は、復興工事で作られたもので、焼け残った創建当時の天井を覆い隠していたのです」と本郷さん。原型はとどめていなかったが、図面と写真で分かった創建時の天井には、干支、鷲、花飾りといった贅沢な意匠が施されていた。「翼を広げると2mほどある鷲の彫刻は、試験的に作っては設置し、写真と見比べながら完成させていきました」(本橋さん)。
一般建築では見られない技術を総動員して造った新・丸の内駅舎。列車に乗らずとも訪れ、細部までじっくり眺めてみてはどうだろう。
10月3日オープンの東京ステーションホテルは客室倍増。大正4年に誕生し、文豪が数々の作品を生み出した舞台としても知られるホテルが、全施設を改装して開業する。内装には、ヨーロピアン・クラシックスタイルの駅舎外観との調和を意識しながら、現代的で機能的なデザインを取り入れた。
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