2012年9月26日水曜日

東京ふしぎ探検隊 国道1号は何故「第二」京浜か

     国道1号はなぜ「第二」京浜なのか 環状3号に幻の区間

 日本中を走る国道。大動脈ともいえる1号線は東京・日本橋が起点だ。しかしこの国道1号、東京から神奈川へ向かう一部区間では「第二京浜」と呼ばれている。日本を代表する国道なのになぜ「第二」なのか。その背景には、道路整備を巡る様々な「事情」があった。

■旧東海道、日本橋から横浜までは国道15号
 東京・日本橋。首都高速道路の高架に覆われた橋のたもとに、「日本国道路元標(げんぴょう)」と書かれたプレートが飾ってある。日本橋が日本の道路の起点となっていることを示すしるしだ。広場にあるのはレプリカで、本物は道路の真ん中に埋め込まれている。

 日本橋は江戸時代に定められた五街道の起点で、現在も国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号はここから始まる。では、東西を横断する国道1号は当然、旧東海道だろうと思いきや、違うらしい。



「日本国道路元標」は道路の真ん中に埋め込まれている(東京・日本橋)
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「日本国道路元標」は道路の真ん中に埋め込まれている(東京・日本橋)

 「国道1号はその大半が旧東海道ですが、日本橋から横浜までは、国道15号が旧東海道に近いルートなんです」。「国道の謎」(祥伝社)などの著書がある国道研究家の松波成行さんが教えてくれた。

 地図を確認してみた。日本橋から始まった国道1号は日本橋交差点で右に折れ、「永代通り」を進んでいく。一方で日本橋から1号と同じ道を進んできた15号は日本橋交差点を直進する。古地図を見ると、確かにこちらが旧東海道を踏襲しているようだ。

 1号と15号は、通称でも「逆転」している。1号は五反田から「第二」京浜と呼ばれるのに対し、15号は新橋から「第一」京浜。いずれも横浜まで続いている。1号は日本で最初の国道ではないのか? 素朴な疑問を松波さんにぶつけてみた。

■戦後に国道を再編 自動車対応進んだ第二京浜が1号に

 「現在の国道は戦後になって再編され、番号を振り直しました。明治時代に最初に指定された国道とは番号の振り方が違うのです」。松波さんによると、1885年(明治18年)、明治政府は「国道表」を発布した。このとき、国道1号として旧東海道の日本橋から横浜港までを指定。これが、現在の15号に近いルートだった。



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 大正時代になると、旧国道1号は交通量が増えてきた。自動車が走るようになったのだ。もともと自動車に対応できる道幅ではなかったことから、新たに自動車も通行できる道路への改築が始まる。「初めて自動車道路を意識した道路でした」と松波さん。1930年(昭和5年)に完成したこの道路が、「京浜国道」と呼ばれるようになった。当時としては画期的な道路だったという。これが「第一京浜」のルーツだ。

 一方、さらに増え続ける交通量に対応するため、1936年(昭和11年)から「新京浜国道」の整備が始まる。これが「第二京浜」だ。

 1952年(昭和27年)、新道路法に基づき国道が再編される。このとき、第二京浜を含めたルートが国道1号に指定された。一方の第一京浜は15号となった。1号なのに「第二」京浜という逆転現象は、歩行者から自動車へと重心が移っていく国道の歴史を映している。

 ちなみに、第三京浜は当初から「自動車専用道路」として計画された。1965年(昭和40年)に全線開通となったが、当時は都道府県道の扱いだった。国道466号の一部となったのは1993年(平成5年)とずいぶん遅かった。
■日本一長い国道は4号 所要時間は1号が上回る



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 国道は全国に何本あるのだろうか。国土交通省によると現在、507号(沖縄県糸満市―那覇市)まで指定されているという。ただし一部が欠番となっており、全部で459路線あるらしい。

 この中で最も長いのが、東京・日本橋から青森までの4号。総距離は737キロにもなる。ただし所要時間で見ると順位は変わる。やや古いデータではあるが、「道路時刻表07~08」によると、所要時間が最も長い区間は1号の「大阪・梅田―東京・日本橋」で18時間29分。大阪から東京へ向かう方が東京から大阪より2分長かった。4号は2番目の長さだった。この道路時刻表、07~08年版を最後に廃止されている。

 ちなみに日本一短い国道は神戸市にある174号。わずか187メートルしかない。ランキングを見ると、上位には港湾部の国道が並ぶ。松波さんによると、道路法で「重要な港湾や飛行場と国道を結ぶ道路を国道に指定する」と規定していることが、こうした短い国道を生んでいる。

 ところで国道を走っていると時々、奇妙な光景に出くわす。愛好家の間で「おにぎり」とも呼ばれている逆三角形の国道の標識が、いくつも並んでいる場所があるのだ。なぜか。実は1つの道路が、複数の国道に指定されることがあるのだ。

 例えば日本橋では、道路元標から日本橋交差点までの間が1号と15号、20号に指定されている。1号と20号は桜田門交差点まで重複している。道路元標より北側も、4号、6号、14号、17号がそれぞれ重なっている。国交省によると、国道は主要都市間を結ぶ道路なので、起点や終点付近では重なりがちだという。
■日本初の「高速道路」は銀座 幻の「スカイビル計画」も



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 国道15号は日本橋から新橋までの間、中央通りとも呼ばれている。銀座では中央通りを取り囲む形で、高架上を道路が走っている。この道路、日本初の「高速道路」だという。

 日本で初めて都市間をつなぐ高速道路ができたのは1963年(昭和38年)。名神高速道路だ。実はそれより前、「高速道路」を名乗る道路があった。東京高速道路だ。

 開通したのは1959年(昭和34年)。「当時は銀座・中央通りの渋滞がすさまじく、その対策として高速道路計画が浮上したようです」。東京高速道路取締役の鈴木孝弘さんが建設の経緯を教えてくれた。

 同社の社史「東京高速道路三十年のあゆみ」によると、当時、三菱地所の社長だった樋口実氏ら23人の財界人が発起人となり、会社を設立した。民間の手で高速道路を造るという壮大な計画だった。

 ただの道路ではない。樋口氏らが東京都に出願したのは、地下4階、地上12階のビルの2階部分に道路を設けるという「スカイビルディング計画」だった。当時東京都の建設局長で、東京・新宿にある歌舞伎町の生みの親としても知られる石川栄耀(ひであき)氏が構想したといわれている。1981年(昭和56年)発刊の社史はこう振り返る。

 「スカイビルディング計画が完成を見たならば、東京の都心部は、現在とは違った形で発展したことだろう」

 確かに、12階建てのビルがぐるりと銀座を取り囲んでいたら、銀座の印象はかなり違っていただろう。それはちょうど、城壁のように見えたかもしれない。

 計画は実現しなかったが、代わりに1、2階が店舗で3階部分が道路というユニークな構造となった。店舗や駐車場、オフィスの賃貸収入で道路を維持管理しており、道路の通行料は無料。厳密には高速道路ではなく一般道路だが、利用者から見ると高速道路と区別はつかない。立派な「日本初の高速道路」だ。首都高も厳密には高速道路ではなく、自動車専用道路。こちらもイメージは高速道路だろう。
 ところでこの道路、利用者からは「会社線」「KK線」などと呼ばれている。会社線は株式会社の道路なので分かるが、KK線は何の略だろう。同社に尋ねると「abushiki aisha」のKKだという。昔は株式会社のことをKKと略すことがあった。同社も「東京高速道路KK」と表記されることがあり、これがKK線との呼称につながったようだ。

 ちなみに東京高速の事務所の住所は「銀座1丁目3番先」。道路建設にあたって川を埋め立てた後、中央区と千代田区、港区との間で境界線が定まらなかった。高架下にある銀座インズなどのショッピングセンターにも正式な住所はない。郵便や税金などの支障はないとはいうが、何とも落ち着かない。
■わかりにくい東京の環状道路 未完の「環3」、文京区に痕跡



汐留では環状2号の工事のため、首都高の高架が一時的に撤去された
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汐留では環状2号の工事のため、首都高の高架が一時的に撤去された

 銀座を囲む東京高速は新橋と京橋で首都高に接続している。しかし現在、新橋側では接続を休止している。訪れてみて驚いた。高架状の道路がぷっつり、切れているのだ。

 「環状2号線の工事をしています」。工事関係者が教えてくれた。聞けば環状2号には未開通区間があるという。汐留から虎ノ門までの地下道路で、2014年に開通の予定だ。マッカーサー道路とも称される道路の工事のため、首都高の一部を撤去したという。
 東京の環状道路といえば環7、環8が有名だが、それだけではない。1号から8号まで8路線ある。

 1号は内堀通りや日比谷通り。2号は新大橋通りや外堀通りだ。3号は外苑東通りや目白通りで、4号は外苑西通りや明治通りなど。5号は明治通りや御苑通り。6号は山手通りだ。実際に環状になっているのは1号と7号だけで、あとは未開通だったり計画自体が環状ではなかったり。4号と5号は一部で重なっているなど、実にわかりにくい。

 象徴的なのは環状3号だ。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅(文京区)から5分ほどの場所に、播磨坂という場所がある。桜の名所として知られている。ゆったりとした道路はしかし、500メートルほどしかない。戦災復興事業の一環で環状3号の一部として整備されたが、前後の道路ができず、わずか500mの「立派な道路」がぽつんと取り残された。戦災復興事業で東京中に緑豊かな環状道路網を構想したのも石川栄耀氏。しかしその理想は一部しか実現していない。(河尻定)

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